月末の雑感 ~Inscrutable Battle~
先月あたりから、鉄道マニア(※ 鉄道ファンでも鉄道ヲタクでも鉄ちゃんでもなんでもいいが、とりあえずこの表現を使う)の行いの悪さが話題になっている。
これらの内容については、蒸気機関車ブームのころからいろいろ言われている話しだから、今更どうこう述べるつもりはない。
むしろ気になったのは、それに対する反応である。
たとえば「走るんですと蔑んでいた209系なのに手を返したように・・・」というもの。しかし、小学生になるころに209系が新車だった世代が今は20歳前後なのであるから、当時と意識の違う層が増えていてもなんらおかしくは無い。
思えば、京王6000系は京王5000系に比べて面白みの無い電車と言われていた。
国鉄50系客車について有り難味を感じるのは、昭和40年代後半生まれだけであり、
あるいは国鉄DD51などは蒸気機関車マニアから目の敵にされていたと聞く。
もっとさかのぼれば、木造電車がなくなったからつまらなくなった・・というった記述すら見たことがある。
それが、いまやどうなんだ?・・ということである。
たしかに変節したマニアもいるのだろうけれど、多くは違う意識を持った層が生まれているということなのだと思う。
自分たちの周辺だけが全てではない・・・ということに思いを馳せられない、ということでもある。
そして、犯罪者のプロファイル作成。
やれ新参組が悪い、やれ「ゆとり」が悪い、やれ「撮り鉄」が悪い、やれ「デジカメの普及」が悪い・・・・。
しかし、それは「自分たちは彼らと違う人種」ということを明確化するための主張にしか思えない。
もし新聞報道されたような人を糾弾するなら、
それは本人の行動、ならびに犯罪行為と迷惑行為についてだけで充分のはずである。
それ以外を付け加えて行くことに、どうにも違和感を感じる。
加えて、鉄道マニアの世界に限らないが、犯罪者や迷惑行為を及ぼすものも含めて社会は存在している。そして犯罪や迷惑行為は、健全な生活あるいは行動の裏返し・・いや、もしかしたら延長上・分岐線上に存在する、と私は思う。人間、悪に手を染めるときには自覚症状がなく、気がつけば・・・というのはよくある話なのだから。だから、このようなロジックで対岸の火事にしてはいけないと私は思う。
余談だが、最近「撮り鉄」「模型鉄」「乗り鉄」という分類が当然と思われているフシがあって辟易させられる。私は、むしろローカル私鉄というテーマであれば、撮りも模型も乗りもする(逆に言えば、それ以外については撮りも模型も乗りも無かったりする)のだけれど、最近そういうことを告げても、キョトンとされることが多い。
以上の2点から、いろいろ考えていたのだけれど
とどのつまり、マニアというのは「独善的」なのである。
犯罪行為を起した人間が独善的なのは確かだけれど
自分(の周り)だけが正しいという主張・行動をしている点では五十歩百歩なのかもしれない。