
・長野電鉄 クハ51 1994年3月 朝陽
OSというと、現代ならオペレーティングシステムというのが一般的なところですが、
やはり鉄道マニアとして思い出すのは、「Officemen & Students Car」であると思います。

・長野電鉄 モハ1 1999年9月

・長野電鉄 クハ51 1999年9月 須坂

・長野電鉄 モハ2 1997年2月 須坂

・長野電鉄 クハ52 1994年3月 朝陽
改めて説明するまでもない電車ですね。
長野電鉄0系電車は、1966年日本車輌で2連2編成が製造されました。
ローカル私鉄の自社発注車では大変珍しい20m級4扉車です。しかも朝には2本つなげて4連で使用したというのは、登場時は特にインパクトの強い話だったはずです。なにせ、20m級(以上)で4扉両開きは、当時の私鉄では、東武8000、小田急2600、相鉄6000、近鉄通勤車、および営団5000系しか存在していませんでした。そして車両形式の「0系」というのも、より印象的なものにしたことでしょう。
車体も鋼製ながら前面に強化プラスチックを使用しており、複雑な造形・・たとえば、運転席窓回りは傾斜がつけられ、前面方向幕上部がその両側よりも凹んでいる・・・も、当時としては斬新なものだったと思います。側面の方向幕も、まだ大手私鉄でも実用化されていなかった時代につけたことになります。こういうった点は、メーカーとして、実験的な部分もあったのではないかと推測されるところです。
電気機器類は、長野電鉄の伝統に従い三菱電機製で揃えられており、制御器はABFM、主電動機は135kw×4でWNドライブとなっています。日本国内で
狭軌用のWNドライブが初採用されてから約10年で、随分と高出力になったことがわかります。ただし、それでも外形寸法が大きい為か車輪径がモハが910mm、クハが860mmと異なったものになったようです。
この主電動機の出力は、40‰勾配が連続する山之内線で使用し、かつMT編成としたためですが、一方で在来車には多く装備されていた抑速制動もしくは発電制動はありませんでした。主電動機の熱容量といった技術的な理由なのかどうかはわかりませんが、このことは引退間近の頃の鉄道誌を読むと、この電車の寿命を縮めることに繋がったようです。

台車は日車NA-18。
インダイレクトマウント式で枕ばねはコイルバネかつオイルダンパ付き、軸バネはペデスタル式となっています。
長野オリンピックを目前にした1997年に廃車。
うち、モハ1+クハ51は暫くの間、須坂駅に留置されていました。1999年の写真はそのときのもので、方向幕が「特急」になっているのはご愛嬌です。

そして、自分が作った模型と並べて1枚ほど。今では鉄コレがありますが、そんなものの影も形も無かった当時。
側面はGMの西武451系を片側4か所の切り継ぎと戸袋窓を埋めて作り、前面は同じく京成3500系キット附属の京成3150用を改造、そして、台車はDT-20を履かせてあります。
「長野オリンピックを記念して~」と言いながらの大改造でしたが、あれからもう19年も流れているんだなあ・・・と、ふと思ったところです。