末期の名鉄揖斐・谷汲線の旧型車というと、前面5枚窓で楕円の戸袋窓を持つ510や、黒野から先の主であった750あたりが思い出されるところですが、さらにもう一つ、2両編成の制御車として使われていた2320がありました。
もとは名古屋鉄道の前身のひとつ、愛知電気鉄道が豊橋方面の路線全通に備えて、日本車輌で製造した電7形デハ3080~3084・3086~3089および附3形サハ3020。揖斐・谷汲線では目立たない存在でしたが、もとを辿れば日本国内のハイスピードインタアーバン用の鋼製車の嚆矢ともいえる存在でした。

・名古屋鉄道揖斐線 ク2323 1989年8月 忠節


・名古屋鉄道揖斐線 ク2327 上:1994年8月 忠節 下:1989年8月 黒野

・名古屋鉄道揖斐線 ク2325 1996年10月 美濃北方

・名古屋鉄道揖斐線 ク2326 1996年10月 美濃北方
細かな経緯は省きますが、愛電では神宮前~吉田(豊橋)の特急電車として使用され、名鉄成立後はモ3200形3201~3209およびク2020形2021に改番。戦後2021が電装されて3200に編入されるものの、1950年代後半に入り、HL制御の旧型車の機器流用で3700番台各形式を製造するにあたって、まず3203、3207、3209の3両が電装解除されて片運転台のク2300形2301~2303に。残る7両も1964年に電装解除されやはり片運転台の制御車になるものの、なぜか形式が変わり、ク2320形2321~2327になりました。
1965~66年には600V化の上で、瀬戸線の木造車淘汰のために同線に転属。
このうち2321~2324は900形と固定編成を組み特急用(2321を除く)に、2325~2327は700形と編成を組み普通用になりました。車齢40年超の車両を投入しても体質改善がだいぶ進んだところに、当時の名鉄の事情がうかがえるところですが、それでも普通用の4両は1973年まで客用扉が手動という状態でした。
その後、瀬戸線の昇圧と栄町への地下新線開業で、旧型車は追放されるわけですが、それに前後して4両(2323、2325、2326、2327)が揖斐・谷汲線に転属しました。この時点で車齢50年前後ですが、これでも体質改善となりさらに20年使われたあたり、この路線の置かれた状況を如実に表していると思います。
今回は、その揖斐・谷汲線の4両すべての画像を並べてみました。
窓はアルミサッシで客用扉はHゴム支持の窓を持つ鋼製になっている点は各車に共通しています。
しかし、前面を見ると各車その構成はバラバラで、2327は貫通扉の窓が小さく、2325は助手側の窓が2段窓、そして2326は1962年の事故復旧の際に高運転台に改造されています。戸袋窓も基本はHゴム支持ですが2325のみアルミサッシ。
屋上のベンチレータの数も車両によってまちまち、さらには前面の尾灯も車両によって形状がことなっていますね。
乗務員扉は製造当初からの位置ですが、引戸で幅が狭いことが2327の写真からわかると思います。
またその窓がHゴム支持の固定窓になっていたのも、少々変わっている点ですね。
台車はブルリ系となっていますが、数種類あった模様。
廃車は1997年4月のこと。新車・780形の投入に伴うでした。
まさかその8年後に路線ごと無くなるとは思いもしませんでしたが。