いまから23年前の夏、東北地方の私鉄廃線跡を巡ったときの話は、これまでに何度か(
山交三山線モハ、
同・間沢駅舎、
山交尾花沢線DB、
松尾鉱業、
羽後交通雄勝線デハ、
秋田県のバスなど)とりあげてきましたが、その際に山形県庄内地方の庄内交通も訪ねています。
ムーンライトで村上へ、そこから羽越線のキハ40系の5連に乗り換えて、まずは羽前水沢へ。
国道沿いのモハ8を見たあとで、鶴岡に一旦出てから旧・善宝寺駅を利用した善宝寺鉄道記念館へと向かいました。
しかし、この頃から既に不定休であり開館している日がわからない状況だったようです。
当日も閉館しており、柵外遠くから保存されているモハ3を見るだけで終わりました。ただし、状態は良かったので、未だ手入れなどがなされていたのでしょう。


・庄内交通 モハ3 1994年8月 善宝寺鉄道記念館(保存)
さて、庄内交通モハ1形は、庄内電気鉄道として1929年に開業する際に日本車輛で先ずモハ1・2の2両が製造されました。
蒲原鉄道デ11形が同型です。翌1930年にモハ3が増備されましたが、扉が窓一つ分車体中央側にずれています。
モハ2は後にモハ5に改番していますが、何故電動車の番号を(モハ8を除いて)奇数に統一したのか不思議なところ・・・似たような事例では、日ノ丸自動車法勝寺鉄道という事例もありますが。
窓が一段式から二段式になったのは、1950年代?の改造の模様。そして、1964年にモハ1・5が、1965年にモハ3が直接制御から間接制御(間接非自動式の模様だが詳細は不明)に改造、客用扉の自動扉化が行われました。
晩年の写真を見ると、もと京王帝都2400のモハ8や、池上電鉄のモハ101・103と編成を組んでいますが、ここで疑問なのが制御装置。出自を考えれば、前者は間接非自動(=手動加速)で単位スイッチ式の三菱HL、後者は間接自動で電動カム軸式の英国EE社(デッカー)系で、通常なら併結はできません。廃線時の写真を見ても特に制御器の変更は行わていないようです。
これは、モハ101・103は常時手動加速として使うようにしていた(
東武3070の時に少々触れてますが、デッカーのマスコンM-8Dは、手動加速として使うことができた・・・ただし、モハ101のマスコンが何であったのかは不明)のでしょうか。いろいろと考えるところです。
8年ほど前に現地を再訪しましたが、各所で報告が上がっている通り、放置状態で構内の木は伸び放題。車両も荒廃が進んでいるようでした。ここへアクセスする手段も、23年前は鶴岡~善宝寺~湯野浜温泉のバスは日中40分間隔でしたが、現在は平日6往復、休日4往復にまで激減しています。