1929年の開業以来青色吐息の経営状態だった茨城県の常北電気鉄道は、やがて日華事変勃発後、軍需増加に伴う日立製作所の好況で旅客が急増。これにより息を吹き返し、最終的に1944年に同社の傘下に入り日立電鉄と改名します。
それまで2軸車ばかりで運行してきた同線は当然、輸送力不足に陥り、結果、日立製作所製の半鋼製ボギー車を導入しました。これがモハ9形で、5両が計画されていましたが完成したのは1944年10月製の2両にとどまりました。

・日立電鉄 モハ10 1989年4月 常北太田
車体長13500×車体幅2634mm(最大長14314mm)、自重24tの3扉車。全体的な雰囲気は同じ頃に製造された
熊本電気鉄道モハ101~103に似ていますが、全長は熊本のほうが1m少々長い(車体長14686mm)ため、扉間の窓数が1枚異なります。また台車などは全く異なっています。
ともあれ、日製が電装品のみならず車体までを含めて製造した最初期の電車です。
その電装品は、主電動機が出力50kwのHS-253が2機、主制御器が電空カム軸式のPB-200、制動は自動ブレーキ(AMM)となっています。既にこの頃、日立の主制御器は電動カム軸式のMCおよびMMCを製造している中でのPBの採用は不思議なところですが、「日立製作所ニ於テ手持品ヲ充ル」ことを条件に製造されたようなので、死蔵状態にあったものを取り付けたものと邪推するところです。
日立PR・PB系は国鉄CS-3となったものを除けば、保守の面などを理由に各社で置き換えられるのが早かったため、撮影時点では貴重な残存例だったと言えます。
台車は弓型イコライザのH1・・・これもなにかのデッドストックだったのかもしれません。
当初はトロリーポールでの集電でしたがビューゲルを経てパンタグラフに変更。
1963年にはモハ9は鮎川側、モハ10は常北太田側に貫通路を取り付けています。
さらにはアルミサッシ化と前面窓・戸袋窓のHゴムが1970年代後半?に順次実施され、1980~1984年の間にはウィンドウシル(モハ9はヘッダーも)が消滅しています。
1971年にワンマン運転化改造が行われており、マニアが訪れやすい休日日中でも走っていました。
モハ10は日立電鉄の旧型車では最後まで残り、1997年に廃車となりました。
・参考文献
白土 貞夫『RM LIBRARY64 日立電鉄の75年』ネコ・パブリッシング 2004年