
・名古屋鉄道岐阜市内線 モ556 1994年8月 新岐阜駅前
既に何度か書いていることですが、日本の純然たる市内電車においてボギー車の普及は、旧六大都市(と京城、大連)を除くと大半は戦中~戦後のことになります。これは輸送力の増強が求められたことに加え、戦災からの復旧で道幅が拡がったことが後押しをしたのかもしれません。
しかし、空襲を受けなかった金沢(北陸鉄道)では、特に小さめの電車となりました。1950年に近畿車両で製造された初のボギー車2000形モハ2001~2010は、最大幅は2200mmと他の都市でもよくある数値(たとえば都電、仙台市電、長崎電軌)ですが、最大長は10500mmと特に短め、さらに前後を絞っているため、よりコンパクトな印象となりました。最も長さは、1951年に製造された2100形は11000mm、1957年以降に製造された2200形は11200mmと徐々に伸びてゆきましたが。
1967年に金沢市内線が廃止になったあと、親会社の名鉄が岐阜市内線の単車追放のために購入しモ550形550~559になるのは御周知のとおり。岐阜も道幅が狭いことで知られますが、こちらは戦災からの復興が思いのほか早く進み、当時の感覚で道は「広くなった」程度にしかならなかったのが原因と言われます。
ともあれ、ボギー車が入れなかった長良北町方面を中心に走り始めます。それにしてもこのとき2000形10両と2200形6両(名鉄モ560形)は全車が譲渡されたのに、その間に挟まれた2100形は12両中1両だけしか譲渡されず(名鉄モ530形)、1977年と早くに廃車になりました。これは、それまでの岐阜の電車が前後扉であった(・・大半が単車だから当然ではありますが)ため、前中扉の2100形よりも2000形が好まれたのかと邪推するところです。
550形は、岐阜に来てからビューゲルをZパンタに変更、ワンマン運転化(1973年)、扉の交換、窓枠のアルミサッシ化等が行われました。前面向かって左側の窓上にHゴム支持のパーツが取り付けられていますが、これは一体なんだったのでしょうか・・550に限らず、岐阜市内線専用車にはだいたい取り付けられていましたが。そのほか、主電動機は37.3kw(50PS)×2という日本の路面電車としては標準的なものですが、もとは三菱MB172-NRから約半数の車両で神鋼MT-60Aに交換されています。
1988年の徹明町~長良北町の廃車の際には、新しかった560形のほうが廃車になっています。これも扉配置さらには主電動機が22.4kw×4というスペックが嫌われたゆえかどうか。結局550は数を減らしながらも1997年のモ870形投入まで一部が生き残りました。

・名古屋鉄道岐阜市内線 モ558 1994年8月 徹明町
・参考文献
清水 武 『RMライブラリ 130 名鉄岐阜線の電車(下)』 ネコ・パブリッシング 2010年