
自社発注のステンレスカーが走りぬける静岡鉄道静岡清水線。
その長沼工場に長い間ヌシのように存在していた電車がありました。
静岡鉄道クモハ20。もとは鶴見臨港鉄道が旅客営業の開始に備え、1930年に製造したモハ100形→モハ110形10両のうちのモハ109→119でした。モハ100形は大半が新潟鉄工所製ですが、このモハ109と110のみが鶴臨と同じ浅野財閥系の浅野造船所製で、両者の間で前面の雨どいや、ウィンドウヘッダーの形状などに差があります。新潟製のほうはのちの銚子電鉄デハ301が有名ですね。
鶴見臨港鉄道は戦時買収で国鉄鶴見線になりますが、電車は鶴見線の架線電圧昇圧を機に他の買収線に異動。モハ119は富山港線を経て可部線に転属し、雑型形式・番号のモハ1505になったのち1958年に廃車になります。そして、同じく可部線で廃車になったモハ1500(←臨港モハ113←モハ103)、モハ1503(←臨港モハ117←モハ107)と共に静岡鉄道に入線。1500、1503、1505の順にモハ(→クモハ)18~20になりました。このうちクモハ18と19はしばらくしてから2両固定編成となり1968年に
クモハ350形に機器流用で廃車になりますが、クモハ20は両運転台であるためか長沼工場の入れ替え用になりました。なお1983年は車籍が抜かれ、以降は工場の機械扱いになっていました。



・静岡鉄道クモハ20 上:1993年8月 中・下:1998年8月 長沼
いちばん上は1993年の撮影で、出場直後なのか随分と塗装が鮮やかでした。残り2枚はそれから5年後ですが、随分と色あせてしまっていますね。
それはともかく、ヘッドライトは幕板に2個づつつけていますが、一時期的には
同社の100形のごとく、窓の下に取り付けれれていた時期もありました。屋上に目を移すと、母線がパンタグラフのある側とは反対の妻にありますが、これはパンタグラフを移設した結果です。工場の建屋の位置関係から、その理由はなんとなく類推できますね。

一方でよくわからないのが下回り。鶴臨100の原型は、制御器が芝浦RPC(RPC151?)、主電動機は芝浦SE-119I(端子電圧675V、出力56kw)で、台車はモハ119は日車D-16でした。
しかし、静鉄に入線してからはいろいろと変わったようです。クモハ20の場合、1970年代中頃にはすでにこのブリルになっていました。このタイプの台車を履いてていた車両となると、揖斐川電気モハニ1→近鉄養老線モニ5001が思い出されるところですが真相はいかに・・・たしかに静鉄は名古屋線改軌のときに余剰となった台車を譲り受けているようですが。
一方、主電動機はTDK-31-SN(端子電圧600V時52kw)と言われています。静鉄では100形でも使われていた主力機種ですがその出所は・・・この型式は名鉄での使用が有名ですが果たして??? そして主制御器はHLになっていることが2つ上の写真から解ります。
そういえば、扉も1970年代前半に木製から鋼製(アルミかもしれませんが)になっています。これもどこから持ってきたものなのか。
この車両に限った話ではないのですが、静鉄静清線の車両はまとまった研究発表が非常に少なく、残された写真も豊富ではないため、謎が多くあります。電車を自分で作ってしまう長沼工場があり小改造も多かったことが輪をかけているのでしょう。同じ静鉄でも、数多くの発表がある駿遠線やそれなりに画像が出てくる秋葉線と対照的なところです。これは東海道線沿線の現在も元気な他のローカル私鉄(遠鉄西鹿島線、伊豆箱根大雄山線)に共通していることで、なんとも皮肉を感じるところです。
クモハ20は1997年にモーターカーを導入したことで失職。
その後も長沼に置かれていましたが、2007年に解体されました。