日立電鉄の車両の中でも、とりわけ曰くつきの車両がモハ11形の2両でした。
1948年7月に親会社の日立製作所で作られたとされるものの、実際には営団地下鉄の発注車でした。
比較的知られている話ですが、大甕~鮎川の新線開業などで車両が必要となった電鉄に、親会社が無理矢理車両を回したというのが実情のようです。ようは契約不履行であり、戦後混乱期とはいえ随分と大胆なことをしたのだと思います。詳細は、参考文献をご覧ください。


・日立電鉄モハ11 1993年3月 常北太田

・日立電鉄 モハ12 1989年4月 川中子
画像はいずれも晩年のもので、窓配置はdD5D5Ddとなっています。これは1971年8月のワンマン化改造の頃に改造されたもので、それまではd1D4D4D1dでした。営団(銀座線)の1400形以前に登場した各車は、扉間中央の窓柱が太いd1D22D22D1dでしたので、営団入線が実現していれば異端車となったはずです。
また、この車両は電装についても日立製作所に発注されています。日立製の電装品を搭載した東京高速鉄道引継の100に合わせたものと考えられます。もっとも制御器については100形は電動カム軸式のMCH200を搭載していますが、こちらはそれよりも古い電空カム軸式のPB200でした。
モハ9形共々、不可解な点ではあります。
台車についてもモハ9形と同じ弓型イコライザの日立H1をはいています。営団銀座線の台車は住友製ですから、この点にも違和感を感じます。軌間が異なることも理由だと思いますが、結局のところ日立製作所では車体しか完成せず、電装品は在庫のものを取り付けて電鉄に入線させたという推測も成り立つかと思います。主電動機もモハ9と同じく日立HS-253(50kw)を1両に2機搭載でした。
なお、東京地下鉄道~営団地下鉄銀座線の車両は電装品は三菱製が標準で、100形は異端児扱いされていたことを考えると、所定の電装品を取り付けて営団地下鉄に入線しても早晩使いづらい車両になっていたと予想されます。
モハ11は鮎川側、モハ12は常北太田側に貫通路があるのはラッシュ時に2両編成を組むことを考慮したものでしょう。ブレーキは諸元ではAMMですが釣り合い空気ダメが運転室下に見えることから、実際には元空気溜め管式のAMM-Rであったと思われます。
また、1970年代後半~1980年代初頭にかけて、前面窓・戸袋窓のHゴム支持化、その他の窓のアルミサッシ化、および車体のノーシル化などが徐々に行われます。その結果、非貫通側の前面はモハ12は扉が残されたのに対して、モハ11はそれが撤去されてHゴム支持の窓が3枚並ぶ形状となり窓の大きさも異なるものになりました。また尾灯もモハ12は埋め込み式、モハ11は所謂ガイコツ型であり、2両の雰囲気はそれなりに異なるものになりました・・・簡単に言えば、モハ11のほうが不細工ですね。
1990年代に入ると、日立電鉄には正真正銘のもと営団銀座線の2000・3000形が入線しますが、その代替でモハ12は1993年11月、モハ11は1994年4月に廃車になりました。
・参考文献
白土 貞夫『RM LIBRARY64 日立電鉄の75年』ネコ・パブリッシング 2004年
澤内 一晃「戦前型銀座線車両の技術史」鉄道ピクトリアル939号(2017年12月)