資料館の書庫から
2024-03-09T22:39:55+09:00
hiro_hrkz
本サイト「創作鉄道資料館」では使わない画像を中心に
Excite Blog
五島自動車のいすゞLV+西工 3題
http://caw99100.exblog.jp/30847606/
2024-03-09T22:35:00+09:00
2024-03-09T22:39:55+09:00
2024-03-09T22:35:09+09:00
hiro_hrkz
バス(北村、西工、東特)
今回の訪問先は、長崎県の福江島。バスがメインではなかったのですが、福江港附近で見ることができた車両を取り上げたいと思います。
福江島で路線バスを運行しているのは長崎自動車系列の五島自動車(五島バス)です。しかし傘下に入るのは1985年と比較的遅く、車両も独自仕様での導入が続いていました。現在は中型車が主力ですが、KC-の途中までは大型車を導入していました。
・五島自動車 いすゞU-LV324K +西工58MC 2024年3月 福江港
西工58MC架装したU-LVです。トップドアでメトロ窓というのは、同じ長崎県の離島である壱岐の壱岐交通を連想させます。ただし、この手の離島の路線車にありがちな高出力車ではなく、サスペンションもリーフサスとそのあたりは大人しい?仕様を選んでいます。
車内の座席も背もたれが高めのものを取り付けていて貸切用途で使ってもよい仕様となっています。・五島自動車 いすゞKC-LV380L +西工96MC 2024年3月 福江港
一方こちらはKC-LVで、車体も96MCになりました。
ただし、基本的な仕様は58MCと変わっておらず、前面の方向幕も小さいまま。さすがに96MCでは他に例も少なくちょっと見慣れない感じですね。
五島列島のいちばん西側に位置する福江島。しかし、面積は諸島の中でいちばん広くまた江戸時代には五島を治めた福江藩の本拠地が置かれるなど、文字通り五島の中心と言える存在です。福江島には昭和合併で福江市のほか三井楽、玉之浦、岐宿(きしく)、富江の4町がありましたが、平成の大合併で2004年に五島市と一つの自治体になりました。なお、もともと福江市には久賀島・樺島が含まれていましたが、このとき奈留島の奈留町も合併しており、現在五島列島は五島市と中通島を中心とする新上五島町の1市1町となっています。
福江島は意外に広く福江から反対側の玉之浦までは30km以上あります。島内に拠点が散在しており、また山も比較的深いことからその間の距離があり何もないのが特徴であると思います。一方、福江は城下町であり思ったよりも中心市街地がしっかりと残っていた・・・完全なシャッター通りではなく商店街としてまだ機能しているのが印象的でした。総じて離島にいるという印象が薄くなりました。
今回は五島にかつて一緒に仕事をした仲間を尋ねにいったため、バスには殆ど乗ることができませんでした(わずかに福江市街で数停留所間に乗ったのみ)。その罪滅ぼし?というわけでもないのですが、お土産としてこんなものを買いました。五島バスの塩キャラメルです。箱の外装が58MCをモデルにしているあたり「解っている」方がデザインされたのかもしれませんね。購入したのは香珠子五島椿物産館で、この地にある海水浴場共々、五島自動車が運営しています。]]>
小さな電車
http://caw99100.exblog.jp/30823811/
2024-02-23T23:00:00+09:00
2024-02-24T10:37:22+09:00
2024-02-23T23:00:49+09:00
hiro_hrkz
模型・神奈電・架空の鉄道
漸く何両かが完成しました。
ノス鉄第4弾をベースに作成した、全長10m級の小型電車です。
もともと第4弾は化かすネタがないなあと思っていたので、とりあえず1箱だけ買ったのですが、その結果出てきたのはキハ1・・・キハ41000のショーティーに荷台付にしたものでした。これを眺めているうちに一つアイディアが浮かびました。
キハ41000(およびキハ40000)の特徴は、側面の窓幅が580mmと非常に狭いことにあります。ノス鉄でもこの部分は変えていないので、ちょっとやそっとの改造ではキハ41000のイメージに引きずられることになります。そこで、手許にあった鉄コレの京福福井ホデハ1001(名鉄3800の同型車)の窓パーツをあてがってみると天地方向がピッタリであることが判明。さらにドア間は窓柱を変更するだけで嵌ることがわかりました。
この結果、思い浮かんだのは福井鉄道モハ60形や北陸鉄道モハ1200のようなステップ付の小型ボギー電車でした。ドア間の窓は柱を全て撤去して、新たにエバーグリーンの0.75×0.75mmで新製、また運転室部分の側窓は拡幅しました。一方で前面も4枚窓では気動車になってしまうので、プラ板から窓枠・窓柱を新製しています。かつて、16番の模型改造記事で、側面の窓柱を全て撤去して新たに窓枠パーツにあわせて窓柱を新製した・・・などというのを見ましたが、それと似たようなことを行ったわけです。
このほか、前面下部の連結器の台座パーツ用の切り欠きをプラ板で埋めるなどを行いました。また、テールライトは「さかつう」の真鍮パイプ(外径1mm)を使用しています。床下は鉄コレの12m級の前後を切り落としただけです。本来なら動力化したといことですが・・・鉄コレ12m級動力もしくはその代替となる小型車用動力を生産してほしいところです。
塗装はクレオスの暗緑色とGMのクリーム1号で塗りました。この結果、なんとなく荒尾市電のような雰囲気となりました。全般的には日車が昭和初期に製造した広浜・宇部電・琴平急行等の小型車の雰囲気で、また車両の大きさは銚子電鉄デハ101が近似となりました。
さて、これ以外にももう1両が完成しました。
エヌ小屋の函館市電500形をストーレートに組んだものです。ただ、そのままでは台車の周りが悪いので、側板の内側をその部分だけ若干削っています。
最近のプラキットだけあってストレスもなく組めましたが、Zパンタの部分だけは多少難儀しました。塗料はメーカーの指定には従わず、茶色はMrカラーの119 RLM79 サンドイエロー、青は自家調合(ガイアのエヴァブルーにMrカラーの322 フタロシアニンブルーとGMの青緑1号を適宜混ぜたもの)を塗りました。ただ、この色は530が現在塗ってある明るめのもので、500形が普通に市内を走っていたころはもっと彩度の低い色だったように思います。
そして、15~20年前に作成した旧・外地の電車についても、昨年末のコミックマーケットにて入手した旧外地路面電車研究会の軽軽電車3、そして岡田健太郎さんの「大陸浪人路面電車」を読んだこともあり、若干手を入れてみました。京城電気300級は、だいぶ前にモデモの江ノ電100のポールに変えていましたが、動力はBトレ動力を改造したもののままでした。これを走行性改善を目的に鉄コレの大型路面電車用に換装し、合わせて前面のヘッドライト脇に設けていたレトリーバーを撤去(実際には灯火管制時に前照灯として使用できる尾灯だった模様)しました。先日の運転会では当然ながら快適に走行してくれました。そして、大連市電3000形も動力の換装を考えたのですが、鉄コレ用でも若干長く少々工夫が必要そうなので、Bトレ動力の表面を削っただけだった部分に鉄コレ動力の台車枠を薄く削って貼り付けました。これでだいぶイメージは改善されましたが、走行性能は今一つ(単独で走らせる分には問題ないのですが)。こちらは引き続き改善が必要です。
ところで、この大連市電。実部の印象から車体幅2300mm程度で作っているのですが、実物は2500mmはあるとのことでビックリしています。国内だと大阪市電などよりも広いことになります・・・さすがに今からフルスクラッチしなおす気力もありませんが・・・。こうして、時代を越えて3扉(もと3扉含む)の路面電車が揃いました。もうちょっといろいろ作ってみたいものです。]]>
舞浜の送迎車
http://caw99100.exblog.jp/30804160/
2024-02-12T23:34:00+09:00
2024-02-12T23:34:05+09:00
2024-02-12T23:34:05+09:00
hiro_hrkz
バス(三菱/呉羽)
・2002年3月
ピンク色の外装が目を引く新エアロスターです。なんといっても全て折戸の3扉という大阪のコムアート交通の車両を思わせる仕様が特徴です。型式はKC-MP717Pでしょうか?。ここは比較的置き換えサイクルが早く、この車両も比較的短期間での使用に留まったと記憶しています。
・1999年2月
一方こちらは貸切系のエアロバスですが、中扉付の車両です。この仕様は淡路交通の例が知られていますが、こんなところにも採用事例がありました。登録番号から類推するに上のエアロスターと同じKC-車と考えられます。型式はKC-MS815SかKC-MS829Sか?
当時、舞浜周辺のホテルでは貸切タイプの送迎車の方が多かったのですが、その中で乗降性の改善を目的としていたのだと思います。それにしても恐らく所要時間10分程度ですから、なかなかの大盤振る舞いですね。
]]>
関東鉄道竜ヶ崎線 キハ531
http://caw99100.exblog.jp/30752655/
2024-01-27T01:09:00+09:00
2024-01-27T01:20:54+09:00
2024-01-27T01:09:33+09:00
hiro_hrkz
鉄道(非電化)
12年前にもキハ521・522を取り上げてますが、今回は残りの1両キハ531を中心に改めてこれら3両を取り上げます。
関東鉄道竜ヶ崎線は全長4.5km、中間駅1駅のミニ路線です。車両も小世帯ですが、東京から近いこともあるのか比較的記録も多く残っているように思います。
竜ヶ崎線では、1965年の関東鉄道成立後も主に鹿島参宮鉄道時代からの機械式中小型気動車が使われていました。しかし、同社は車両の大型化と総括制御化を推進するため各地の私鉄で廃車になった液体式の大型気動車を大量に集めます。1969年10月末日に廃止になった江若鉄道からは5両を購入しますが、このうち以下の4両が1970年4月に竜ヶ崎線に配置され、番号を変更せずに使用開始しました。
・江若鉄道キハ5121←キハ18← ←国鉄キハ42054 1937年 日本車輌製
・江若鉄道キハ5122←キハ19←長門鉄道キハ11←国鉄キハ42017 1936年 日本車輌製
・江若鉄道キハ5123←キニ6 1931年 日本車輌製
・江若鉄道ハ5010←ハニフ10←キニ10 1935年 川崎車輛製
すなわち、元を辿ればキハ5121と5122は国鉄の大型ガソリンカーであるキハ42000形、キニ5123とハ5010は国鉄に先駆けて江若が揃えた18m級大型ガソリンカーの一党になります。江若は、1960年代になると車両の総括制御と貫通編成化を志向し、1965~1966年にキハ5121、キハ5122は片運転台化、ハ5010は切妻の中間車化されて3両貫通編成を組むようになります。一方、キハ5123も両運転台のまま前面に貫通路を設け総括制御車化されました。
竜ヶ崎線でも3連と単行で使用されましたが、検査時等は組み替えていたようです ※1)。しかし、3連は過剰だったのか1971年のワンマン運転化開始時にハ5010は常総線に転属しています。そして1972年9月にキハ5121、キハ5122、キハ5123の順にキハ521、522、キハ531に改番されます。
それも束の間、キハ521と522は1975年、キハ531は1977年に主に京成電鉄の車両更新を行っていた大榮車両で車体を新製し面目を一新します。
・関東鉄道竜ヶ崎線 キハ531 上:1994年5月 下:2001年5月(廃車後) 龍ヶ崎・関東鉄道竜ヶ崎線 キハ521(左)、キハ531の連結面 1994年5月 龍ヶ崎
関東鉄道には国鉄キハ42000を出自とする車両が他に合計9両(キハ601~602、611~615、704、551)ありましたが、これらはもとの鋼体を流用し前頭部のみを改造しています。とくにキハ601・602、611~615は1972~75年に改造されています。また、関東鉄道は扉の増設などの大規模な車両工事は外注していましたが、その受託先は時期別に異なっています。
・1960年代後半=日本車輌東京支店 キハ703、704、751~754
・1970年代前半=西武所沢工場 キハ411~412、601・602、611~614、755
・1970年代中盤=大榮車両 キハ551、721、701~702、521~522、531、311~312
・1970年代後半以降=新潟鉄工所 キハ313以降(部品流用による実質新造車)
すなわち、この3両は関東鉄道が車両の更新方法を車体流用から新造に変更するターニングポイントにあった車両といえます。それは大栄車両が京成の車両更新でノウハウを持っていたことも関係しているのではないかと推測するところです。なお、この中でキハ551は江若鉄道で総括制御改造され一旦加越能鉄道に譲渡されてから関鉄に再譲渡されたものです。車体更新前のキハ531と同系の前面を持っていましたが、似たような改造をされながらもその末路は随分と違ってしまいました。
キハ521・522・531の前面はキハ600・610を踏襲しており、折妻で貫通路付3枚窓でヘッドライトは貫通路上にある点は共通しています。これはその後キハ310形まで受け継がれました。一方で、この3両は最大長が19553mm(キハ521・522)または19490mm(キハ531)、最大幅が2720mmと国鉄キハ20・30等の20000mm・2800mmより一回り小さくキハ521・522の更新前に近い寸法になっています。その理由は判りませんが、菱枠台車のTR29を流用した点やあるいは竜ヶ崎線の建築限界が関係しているのかと考える次第です。なお、常総線ではキハ500以降は幅2800mm、キハ800以降は全長20000mmが標準になっています。
・キハ531の台車
その後1981年に登場したキハ532は車体幅2800mm・最大長20000mmで常総線の新造車両に準じた車両となっています。
キハ521・522はキハ2001・2002の投入に伴い1997年に、キハ531は減車で2001年に廃車になりました。
※1 湯口 徹『レイル No.19 私鉄紀行/からッ風にタイフォーンが聞こえる(上)』エリエイ 1986年 に掲載の写真等を参照
・参考文献
飯島 巌・森本 富夫・諸河 久『私鉄の車両8 関東鉄道』 保育社 1985年9月
白土 貞夫『RMライブラリ―169 関東鉄道竜ヶ崎線(下)』ネコ・パブリッシング 2013年9月
稲葉 克彦『RMライブラリ―185 大榮車輛ものがたり(中)』ネコ・パブリッシング 2015年1月
]]>
拙サイト「買収国電のプロフィール」の内容が剽窃された件に関して
http://caw99100.exblog.jp/30719207/
2024-01-21T01:04:00+09:00
2024-01-21T02:46:53+09:00
2024-01-21T01:04:53+09:00
hiro_hrkz
おしらせなど
2023年 11月 05日の記事に関する続報です。
去る2023年10月10日にカルチュア・エンタテイメント(株)ネコ・パブリッシング カンパニー(以下、ネコ・パブリッシング)から出版された宮下 洋一著『写真とイラストで綴る買収国電』に、拙サイト「買収国電のプロフィール」の内容が私の許諾をなしに転載、つまり剽窃されています。私は本書を10月9日に東京・神保町の書店で購入した際にこの事実を知り、内容について検証を進めた上で10月下旬以降数度、同社の関係者と接触を行いました。そしてこの度、RM MODELS 342号(2024年3月号)の19ページおよび同社のサイトに本件についての謝罪文が掲載されたことを報告いたします。
現時点で最終的な合意には至っておりません。
まずは謝罪を優先するという点で合意したため、今回の掲載となりました。
なお、謝罪の書面については事前に閲覧しています。
「無断引用」や「権利を阻害」といった疑問のある表現もありますが、私からの指摘は拙サイトから剽窃した範囲についてのみとしました。
今後、詳報に向け引き続きネコ・パブリッシング側と接触を行います。
また、私の権利範疇外ではありますが、『写真とイラストで綴る買収国電』ではwikipediaからルールを守らない転載・引用が行われています。本件についても詳細な検証を求めます。
2024年1月21日
]]>
甲辰
http://caw99100.exblog.jp/30606524/
2024-01-02T13:52:00+09:00
2024-01-14T21:29:54+09:00
2024-01-02T13:52:50+09:00
hiro_hrkz
バス(その他)
また、被災された皆様にお見舞い申し上げます。
・2004年6月 江戸崎
今年もよろしくお願い申し上げます。
2024年/令和6年、甲辰(きのえたつ)。
バスの表紙は十干の「甲」から甲府のサッカーチームの広告車となった山梨交通のLV324を選択しました。同社唯一の富士7E架装車です。
そして総合表紙には十二支の「辰(龍)」から関東鉄道龍ヶ崎線としました。こちらはある意味定番かとは思いますが。
さて、この茨城県の龍ヶ崎には車体に龍を描いた路線バスが走っていました。
1994年~1995年に、龍ヶ崎ニュータウン用として投入された車両で、1994~95年に関東鉄道がいすゞU-LV324K +IK、茨城観光自動車が日野U-HT2MMAA +日野車体を数両づつ導入しました。・関東鉄道 いすゞU-LV324K +IK 2005年9月 佐貫駅・関東鉄道 いすゞU-LV324K +IK 2005年9月 佐貫駅・茨城観光自動車 日野U-HT2MMAA +日野車体 2001年5月 茨城県牛久市 ※・関東鉄道 日野U-HT2MMAA +日野車体 2005年9月 佐貫駅・茨城観光自動車 日野U-HT2MMAA +日野車体 1996年9月 佐貫駅・関東鉄道 日野U-HT2MMAA +日野車体 2012年5月 茨城県龍ヶ崎市
車体の側面~リアに大きく龍が描かれ、前面にも龍のマークが窓下にありました。龍の色は赤と青の2種類があり、「赤龍」「青龍」の通称で呼ばれていました。
仕様の面では関鉄と茨観がそれぞれが指定したのか、塗装以外に共通点はありません。車両の長さや側面の方向幕の位置もそれぞれで、自社の標準的な仕様に準拠させています。もっとも、関鉄は窓サッシを黒くするなど若干は特別な仕様としていることが伺えますが。
なお、2001年5月に茨観は廃業しましたが、青龍・赤龍は全て関鉄に移籍しました。茨観の行先表示はわざわざ〇〇行と書かれていたのが特徴でしたが、ここは関鉄仕様に変更しています。
※ 2024.1.14 茨城観光自動車 土浦22あ1714を追加しました。さて、今年は順調に行けば拙サイトの開設から25周年となります。
昨今の状況を考えて、紙と活字で残すことを真剣に考えたいと思います。]]>
年末の雑感 ~I must go!~
http://caw99100.exblog.jp/30594591/
2023-12-31T00:43:00+09:00
2023-12-31T03:05:50+09:00
2023-12-31T00:43:28+09:00
hiro_hrkz
言いたい放題
いろいろな場所に行けたことに
たくさんの方に出会えたことに、心よりの感謝を。
・今年のまとめ
1) サイト
新しいコンテンツ、「ことでん600・700・800の備忘録」を作成しました。その動機については既に書いていますが、じっくりと車両の研究を行いたかったということもあります。名古屋市交時代にどのような使い方をされていたのかを含めて、ある程度掘り下げることができたのではないかと思います。
残念だったのは、ことでん当局が600・700の25周年に何もしなかった点です。踏切問題でそれどころではなかったとは思いますが、ここでももと京浜急行車との温度差を実感しました。
2) 模型
上記のことでん600の研究に力を入れた影響がいちばんに出てしまったのがこちらで、今年の完成は2両・・・しかも1両は昨年からの仕掛品で、もう1両はワムにチビ客車の動力を組み込んだだけなので作成したものと言えるのかどうか。いずれにせよ史上最低記録です。
細かいところが見えないので、ついに老眼鏡デビューとなってしまいましたが、これでだいぶ改善されました。やはり道具?は大切です。そして、昨年秋は骨折して何もできなかったから今年は挽回するぞ・・・と思っていたのですが・・・(後述)。
さて、昨年に引き続きJAMでは多摩温泉電鉄さんのご好意があり、また関西方面での模型交流会に誘われ、よりたくさんのフリーの私鉄電車の作者さんと交流ができたのは大変嬉しかったことです。一方、7年ぶりに架空鉄道作者の交流の場にも出席して拙作を見て頂いたのですが、模型作品ではなく架空の鉄道の表現方法として注目して頂いたのは新鮮な感覚でした。
3) 外回り
行動制限の緩和もあって、去年よりはいろいろなところに行くことができましたが、一方で宿泊代の高騰はいやがおうにも感じざるを得ませんでした。金出せば泊まれるだけマシで、そもそも宿が空いてないということもありましたが。また仕事が多忙で思うように予定が組めず、突発的な1泊2日以下の日程が多くなりました。その結果、九州等には行けなかったのは残念なところです。唯一、鉄を離れて南紀(熊野三山)に行ったのは気分転換になりました。
今年は久しぶりに廃止された鉄道に関係したところ(栗原電鉄、北鉄加南線、田口鉄道)にも行きました。くりでんミュージアム、奥三河郷土館の立派さには関心しましたが、一方で山中温泉の「しらさぎ」の今後は気になるところです。
そして全線新線の宇都宮ライトレールの開業は、小学生の頃に海外では路面電車が活用されている話を見た私にとっても、文字通り待ちに待った日がようやくやってきたと思いました。宇都宮にはこれまでもバスが目当てで頻繁に訪れていますが、今年はそのほとんどをライトレールに費やしました。
昨年書いた百貨店の屋上神社仏閣については、関西・北陸・東北にまで進出しましたが、途中で伸び悩みしています・・・もうちょっといろいろ行きたいところです。
4) ニュース雑感
既報ですが、現在、拙サイトのコンテンツ「買収国電のプロフィール」の一部(「買収国電はどのように使われたか」等)がある書籍に剽窃される事件が発生しています。本件は現在進行形で事態の決着へ向けて動いているため、詳細な報告は差し控えます。
しかしながら、剽窃個所の特定、それを説明するための資料作成、さらには郵便送付など極めて非生産的な作業に時間を取られることになり、10月以降は模型作成が全くできなくなりました(その理由には相手も模型作者であることから生じる精神的な面もありますが)。一方で相手方が模型展に作品を展示するなど普通に行動していると聞けば疑念を感じるのも事実です。よく被害者は二重三重に被害を受けるといった言い方がありますが、それを実感することにもなりました。
さて、今回の一件で私が感じたのはネットで文章等を公開することの限界です。ネットが一般的なものとなって四半世紀。しかし今でも活字よりもネットは一段下のものとして見られているように思います。今回の事件でも危惧しているのはその点で、時間が経ち私の方が剽窃したと誤解する人間が出てくることを心配しています・・・最も、拙サイトがあと何年維持できるのかという問題もあるのですが。
これまで自分が気になった物事をまとめただけで研究と呼べるようなものではないという思いもあり、自分の生産物でお金を取ることには抵抗がありました。しかし、マニアの発表の場が同人誌・自費出版に回帰しているのは決定的であり、私もその方向を真剣に検討せざるを得ない状況だと感じています。
なお、本件に関してはたくさんの方から励ましの言葉をいただいております。
この場を借りて感謝を申し上げます。
今年も拙サイトをお読みいいただきありがとうございました。
それではよいお年を。
きたる2024年が皆様にとって、あらためて福と幸いに溢れる一年でありますように。
]]>
新潟交通 モワ51
http://caw99100.exblog.jp/30549748/
2023-12-23T02:11:00+09:00
2023-12-24T00:44:41+09:00
2023-12-23T02:11:29+09:00
hiro_hrkz
鉄道(電機、貨電、貨車)
新潟交通モワ51は電車線の前身である新潟電鉄の発注車で、1933年7月の開業に若干遅れた同年8月、日本車輌東京支店で1両が製造されました。同社が開業期の1933~35 年に発注した車両は全て日車製で、旅客車のモハ11形(モハ11~15)、クハ31形(クハ31~32)と同系です。すなわち、車体幅2300mm×車体高3520mm、オーバーハング値2300mm、窓は一段下降窓で前面は中央の窓が狭い平妻、台車のD14は全形式共通です。一方、車体長はモハとクハの12000mmに比べて短い10300mm(最大長11150mm)で、自重25.6t、積載荷重は10tです。
主要機器類はこの時期のローカル電鉄では例の少ない芝浦製を採用しています。基本的にモハ11形と同じものを採用しており、主制御器は電磁接触器式・間接式・手動加速のRMK103で、電空カム軸式・自動加速のRPCが芝浦の主力になっていた当時すでに旧い仕様の機種でした。主電動機はSE-119H(端子電圧750V・出力56kW)を4機搭載していますが、モハが歯車比19:70なのに対し、こちらは15:74と大きくとられており牽引力重視であることが伺えます。なお、主電動機は後年WH製の556-J6(端子電圧750V・出力75kW)に交換されています。
ブレーキは、竣工図には直通兼自動空気制動とあります。これも芝浦製であれば、GE系のAVR(いわゆるAMJ)になると思います。
長年、貨車牽引で使用されていましたが、1982年の貨物輸送廃止後は専ら雪かき車のキ116と編成を組んで、除雪用となっていました。
そんな理由もあって、1999年4月の全線廃止まで残存し、その後は旧・月潟駅でかぼちゃ電車保存会により保存されています。
さて、新潟交通モワ51は全長が12mを切っています。通常、この位の大きさの車両になると、主制御器は直接式でブレーキは直通制動という組み合わせであることが多いのですが、この車両は先述のとおり間接式で自動制動であるため機器類は増えます。一方で、先述の通りオーバングは2300mmで床下機器のある場所を拡げるため台車が両端に寄っているということもありません。床下機器を見ると、大きな箱が2個(北側)、抵抗器類が数個とブレーキシンダー(南側)程度しか見当たりません。
しからば、どこに搭載しているのかいうと、車内の運転台と荷物室の間に設置されていました。
上の2枚は月潟で車内が公開された際に撮影したものですが、運転台が狭く全容を撮影することはできませんでした。
パンタグラフ側には補助接触器、主電動機開放器(MCOS)、断路器、主接地、補助設置など電気関係の用品が、一方で非パンタグラフ側は空気溜めが3っつ?とコンプレッサ(DH25)などブレーキ関係の機器が搭載されていました。いずれも運転士の背中側の非常に近い場所に1500Vが通電するわけで、現在の感覚では考えれない設計だと思います。最も、同じ頃に製造された電気機関車でも一部はこのような設計があるので、なにもこの車両だけが特別だったというわけでもないのでしょう。
最後に荷物室内と運転台の写真です。主幹制御器(マスコン)は芝浦RC416で直列5段・並列4段です。
・画像は1枚目が1990年3月 東関屋、2枚目が1995年3月 東関屋で撮影したほかは、全て2017年5月 月潟で撮影
・参考文献
鈴木 大地「新潟交通」 鉄道ピクトリアル652号(1998年4月増)
瀬古 龍雄「新潟交通電車線よもやま話」鉄道ピクトリアル652号(1998年4月増)
藤田 俊彦「下内電鉄モワ51と貨車」鉄道模型趣味483号(1987年2月)
「車両竣工図表」新潟交通電車部
]]>
広島電鉄の日野RC
http://caw99100.exblog.jp/30517962/
2023-12-09T22:11:00+09:00
2024-01-05T09:00:29+09:00
2023-12-09T22:11:39+09:00
hiro_hrkz
バス(日野車体)
広島は政令指定都市の中では最も遅くまでモノコックボデーの車両が主力でした。
今回は、その中から広島電鉄の日野車体架装車を取り上げたいと思います。
・広島電鉄 日野K-RC301 +日野車体 1998年9月 八丁堀・広島電鉄 日野K-RC301 +日野車体 2002年8月 八丁堀
過去、同社のバスを取り上げたときにも触れていますが、かつての広電のバス部門は市内線担当の第一自動車部と郊外線担当の第二自動車部に別れており、導入する車両の仕様も異なっていました。
市内線は軸距5.2m(中間尺)が標準で、サスペンションは板バネですが低床車でした。画像はどちらもK-RC301ですが上の広島22く1814は1981年式、下の2022は1982年式でこの年からメトロ窓を採用し中扉がワイドドアになりました。
・広島電鉄 日野RC321 +日野車体 1998年9月 広島駅前・広島電鉄 日野K-RC321P +日野車体 2000年8月 広島バスセンター・広島電鉄 日野K-RC321P +日野車体 2002年8月 広島バスセンター附近・広島電鉄 日野K-RC301P +日野車体 2002年8月 広島バスセンター・広島電鉄 日野K-RC381改 +日野車体 2002年8月 広島バスセンター
一方、郊外線はこの時期、軸距5.7m(長尺)の車両を主力としていましたが、軸距5.2m、4.8m(短尺)も並行して導入していました。1980年にはエアサスとなり、1982年からは市内線同様メトロ窓を採用しています。
画像1~3枚目が軸距5.7m車で、1枚目の広島22く1494は排ガス規制前のRC321、2枚目の1639と3枚目の2102は昭和54年排ガス規制適合・エアサス(K-RC321P)です。4枚目の2115は軸距5.2mでエアサス車のK-RC301Pで、西工架装車も導入していました。そして5枚目の3726は軸距4.8m車でこれのみ中扉が折戸となっています。なお、RCの軸距4.8m(K-RC381)にはエアサスの設定が無かったため、1981年式は予燃焼室式エンジンのEB400を搭載するK-RE101Pの改造扱いでエンジンをRCの直噴式ER200にした車両を導入、1982・83年はK-RC381の改造扱いとなったようです。
・参考文献
「バス事業者訪問42 広島電鉄株式会社」 バスラマインターナショナル46号(1998年3月)
]]>
豊橋鉄道田口線(田口鉄道) モハ14
http://caw99100.exblog.jp/30497587/
2023-11-24T00:14:00+09:00
2023-11-29T00:42:37+09:00
2023-11-24T00:14:04+09:00
hiro_hrkz
鉄道(旧形電車)
総勢300両超を数えた買収国電ですが、いまや残存していて一般人が見ることができる車両は僅か3両となってしまいました。そのうちの1両が、もと豊川鉄道モハ10形モハ14の田口鉄道→豊橋鉄道田口線モハ14です。設楽町田口の奥三河郷土館で保存されていましたが、同館が道の駅したらに移転するのに合わせて2020年に移動し再整備され、2021年より再度公開されました。今年9月に訪問したので、ここに纏めてみたいと思います。
豊川鉄道モハ10形は1925年7月 日本車輌製の木造ボギー車で、豊川鉄道の電化に合わせて11~15の5両が製造されました。同社の傍系である鳳来寺鉄道も同形のモハ1を1両製造しており、1937年の改番でモハ10としています。最大寸法(長・幅・高)は15392×2714×4127mmで、車体は木造ながら屋根はシングルルーフです。電装品はEE→東洋電機系を採用し、主制御器はEEの電動カム軸式、主電動機はTDK-31(52.2kW)×4でした。またブレーキは自動制動(AMM)でした。
田口鉄道も豊川鉄道の傍系会社であり、鳳来寺鉄道と合わせて一体の運行を行っていましたが、自社発注の鋼製車101・102→モハ36・37は吉田(豊橋)直通用となり、線内運用にはこのモハ10が使われていました。豊川・鳳来寺が国家買収されて飯田線となったあとも、田口鉄道は運行を国鉄に委託していましたが、1951年8月にモハ14・15を購入し1952年には自主運行を開始しています。この後、車体外板に鋼板を貼りいわゆる「ニセスチール車」になっています。
1956年に田口鉄道は豊橋鉄道に吸収され同社の田口線となります。そして1968年8月に廃止されました。鋼製車もモハ36~38と電気機関車のデキ53は輸送量の減少に伴い廃線の数年前から順次渥美線に転属しましたが、モハ14・15は廃車になります。このうちのモハ14は田峰駅跡に移動して展示、そして1977年には奥三河郷土館に移動しています。
ここで、1995年7月に移転前の奥三河郷土館で撮影した画像を並べてみたいと思います。 この頃から屋根の下で保存されていました。ただ、塗装は色あせていました。田口線は晩年、茶色とクリーム色だったので、郷土館での保存に際して塗り替えたものだと思われます。最も、その後の写真を見ると、何度か塗りなおしされてたようです。
車内は片側の座席等が撤去され、そこにガラスケースの陳列棚が設けられ田口鉄道ゆかりの品が展示されていました。
一方、こちらは現在の車内です。陳列棚が交換されて窓が見えるようになり車内が明るくなりました。また、床板を保護するためか、スノコが敷かれています。室内灯のグローブは一か所が失われていましたが、さすがにこれは復元できなかったようです。なお、扉脇の柱など金属での補強があることがわかります。そして陳列棚の交換の最大の成果はこの部分だと思います。座席が無いため車両の柱と外板が見えているのですが、柱は木製、側板は鋼版であることがわかります。つまりは単純に羽目板の上に鋼板を貼ったのではなく、それを撤去して鋼板を貼ったのだと思われます。
床下機器についてもよく見えるようになりました。台車は国鉄TR14系の日車製です。抵抗器が台車の直後に枕木方向に取り付けられているのは、少々特徴的な点ですね。一方でプラットホーム側は殆ど見ることができないのは残念なところですが、これは致し方ないところでしょうか。トラス棒の観察もしやすいと感じます。そして運転台の機器は両側ともに残っています。マスコンは、EE製のM8です。豊川鉄道の電車・電気機関車は全てEE~東洋を採用していました。
ところで、買収国電でEE~東洋の電動カム軸系制御器を採用していたのは、この豊川・鳳来寺のほかに青梅電鉄と阪和電鉄→南海山手線があります。この中で、青梅電鉄の車両は買収後に保守に支障があったのか早期に全車両が電装解除の憂き目にあったことが知られています。一方、豊川鉄道の車両についてはそのようなことはありませんでしが、モハ10は1951年までに廃車になり、鋼製車については1949~53年に国鉄CS1~3に換装しています。まとまった数が存在した阪和車も、最終的に国鉄制式の制御器に換装しています。
ここで考えられるのは、青梅車がダウンした理由は従来巷間で言われるよう主電動機の架装方法の違い(ノーズサスペンションとバーサスペンション)ではなく、国鉄の電車には存在しなかった電動カム軸式の主制御器のほうが主な理由だったのではないか?という推論です。なお、国鉄も戦後になると電動カム軸式の試用を開始し1951年にはCS10として量産を開始しています。
最後に前頭部の画像です。国鉄時代の画像を見ると母線などはないので、これらは後年の追加なのでしょう。なお、郷土館の2階の連絡通路から見れば、もっとよく見えると知ったのは帰宅後の話・・・。
来年には製造後100年を迎えます。
公共交通では、なかなか行きにくい場所ですが廃線跡とともに訪ねてみるのも一興かと思います。
・画像は特記したものを除き2023年9月 撮影。
・参考文献
清水 武『RM LIBRARY 254 豊橋鉄道田口線』 ネコ・パブリッシング 2021年8月
沢柳 健一「買収国電を探る 飯田線」 鉄道ピクトリアル33号(1954年4月)
「鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション17 国電復興時代」に収録
白井 良和「奥三河に咲いたローカル線 田口線の回想」鉄道ピクトリアル461号(1986年3月増)
田尻 弘行・阿部 一紀・亀井 秀夫「買収国電(社形の電車たち)」鉄道ピクトリアル2000年4月臨時増刊
武田 彰「雨で別れた豊鉄田口線」鉄道ピクトリアル216号(1968年11月)
]]>
台北の路線バス 2023 02.車体が変わった3ステップ車
http://caw99100.exblog.jp/30486810/
2023-11-09T00:25:00+09:00
2023-11-09T01:01:22+09:00
2023-11-09T00:25:58+09:00
hiro_hrkz
台湾のバス
さて、2年前の時点で日野RKは、固亞、馨盛、鑫威 の3社、ふそうRMは鑫威の架装例を見ることができました。しかし、台北の日野車で多くの架装例を見ることができた固亞汽車製造は2022年5月に解散(中文のサイトより)、また鑫威汽車工業も2020年以降は企業活動を停止(こちらも中文のサイトより)しているようです。
したがって、各社ともコーチビルダーの変更を余儀なくされています。最も、台湾のコーチビルダーは小さいところが多いため、このようなことは少なくないようですが。
さて、今回は快速公車が比較的多く集まる板橋駅のバスターミナルで台北首都グループ各社の事例を見た程度です。従って、全く網羅できていないことをお断りします。なお、型式や投入系統などについては、前回と同様に臺灣巴士大全や維基學院、Facebookの台湾バスのコミュニティの情報を参照しています。
・日野RK
・台北客運 KKB-1962 日野RK8JRVA-KJF +三坤 板橋駅
台北客運が2021~2022年に導入した車両は台南の三坤車體を架装しています。三坤はこれまで貸切・高速路線車への架装を主に行っていました。現地マニアのサイトでは仿造固亞(仿造=模造)と書いてあり、固亞の車体に準じたものになっています。ただ、見比べると完全に同形ではなく、こちらのほうが屋根が深いようです。なお、三重客運も同形を導入していますが三重~林口の927路用なので見ていません。
・三重客運 932-U7 日野RK8JRVA-KJF +弘鉅 板橋駅
・三重客運 KKA-7549 日野RK8JRVA-KJF +總盈 板橋駅
一方、三重客運が2022年に導入した車両は、台北首都グループの弘鉅または台南の總盈汽車を架装しています。弘鉅も固亞に準じた車体を日野RKに架装した車両を1両だけ製造していましたが、打って変わって四角四面の箱のような車体を量産しました。總盈汽車は大有の嘉馬KS330に架装した業者ですが、主力は貸切・高速路線車のようです。
両者の間にあまり差はありませんが、扉の窓ガラスの大きさなどが異なります。なお、三重客運の車両はいずれも一般路線用のワンロマ(普遊車)で前中扉となっています。
・大都会客運 KKB-0062 日野RK8JRVA-KJF +總盈 台北アリーナ附近
大都会客運も總盈を架装した車両を導入しています。こちらも一般路線用のワンロマ車です。
なお同社は弘鉅を架装事例も導入していますが、こちらはリフト車で台北市営バス時代の虹色塗装を復刻させています。
また、このタイプは台北客運も弘鉅・總盈の両方を導入しています。總盈はトップドアの快速公車用になっています。
・三菱ふそうRM・首都客運 KKB-2109 三菱ふそうRM11FN2XE +弘鉅 板橋駅
・首都客運 KKB-2113 三菱ふそうRM11FN2XE +弘鉅 板橋駅
画像は首都客運が2023年に導入した車両で、こちらも日野RKと同じく弘鉅を架装しています。しかし前面は打て変わって宇通ZKへの架装例に準じたものになっています。なお、上の画像のKKB-2109はリフト車(大復康巴士)となっています。
全車両952路(板橋駅~南崁)で使用されています。
台北、三重も同形車を快速公車用に導入しています。
・厦門金旅 XML6122H・三重客運 KKB-2066 厦門金旅 XML6122H +弘鉅 松山空港
大陸は金旅の高床車が台北都市圏の公車に初登場となりました。
画像は三重客運が2022年に導入した車両で、上記のふそうRMと同じタイプの弘鉅を架装していますが、若干ヘッドライト周りの造りが異なっています。
いずれも台北市内と林口を結ぶ快速公車(936路、945路、967路など)に投入されています。
台北、大都会も同形車を導入しています。
]]>
「買収国電のプロフィール」の更新停止と記事中の誤記について
http://caw99100.exblog.jp/30483786/
2023-11-05T01:57:00+09:00
2023-12-02T00:50:50+09:00
2023-11-05T01:57:30+09:00
hiro_hrkz
おしらせなど
今回は皆様にご報告があります。
コンテンツの一つである「買収国電のプロフィール」について、その内容が今年10月に発刊されたある書籍に引用の前提を守らずに引き写される事件が発生しています。今後の状況説明あるいは係争案件に発展した場合を考え、「買収国電のプロフィール」については現状のまま保存(=書籍の出版よりも前から拙サイトのコンテンツが存在することの証明)し当面の間、更新を停止します。
さて、この引き写された部分を確定する作業を行った際に、拙サイト内で幾つかの誤記があることが解りました。
通常であれば、すぐに修正を行うのですが、上記理由によりできません。
そのため、まずここに報告します。事件の決着がつき次第、速やかに更新します。
・買収国電はどのように使われたのか 転配属と廃車
1.事故車・戦災車の発生
(誤)三河河合
(正)三河川合
2.浅野系電鉄車の疲弊と東鉄管内から買収車の淘汰
(誤)内訳は青梅車が13両で最も多い。鶴見車は小型車と木造車、それに買収後ほぼ使われなかった
軌道線からの転用車2両の合計9両、南武車は小型車ばかり9両である。
なお、青梅車のうち5両が木製のほかは鋼製車である。
(正)内訳は青梅車が11両、鶴見車は小型車と木造車、それに買収後ほぼ使われなかった
軌道線からの転用車2両の合計8両、南武車は小型車ばかり12両である。
なお、青梅車3両・鶴見車2両・南武車1両が木製のほかは鋼製車である。
・幻の買収国電
(誤)黒田原
(正)黒川原
・阪和電気鉄道→南海鉄道山手線→国鉄阪和線 車輛解説 前篇
(誤)モタ300(301~330)→モタ300→モハ2210(~2237)→クモハ20(000~037)
(正)モタ300(301~330)→モタ300→モハ2210(~2237)→クモハ20(000~027)
(誤)モタ3000(3001~3004)→モタ3000→モハ2250(~2254)→クモハ20(100~103)
(正)モタ3000(3001~3004)→モタ3000→モハ2250(~2253)→クモハ20(100~103)
・鶴見臨港鉄道→鶴見線 ●旅客車(2) もと鉄道省木造電車
B.モハ1系払下車
(誤)(50年 台枠以下を上毛電気鉄道モハ20に流用)
(正)(50年 台枠以下を上信電気鉄道デハ20に流用)
・富士身延鉄道→身延線 ●旅客車(1) 新造車 (2023年12月2日 訂正)
(誤)クハニ7210 弘南鉄道クハニ1281
(正)クハニ7210 弘南鉄道クハニ1282
(誤)クハニ7211 弘南鉄道クハニ1282
(正)クハニ7211 弘南鉄道クハニ1283
ご迷惑をおかけします。
なにとぞご理解のほどお願い申し上げます。
]]>
台北の路線バス 2023 01.増備が続く電気バス
http://caw99100.exblog.jp/30478901/
2023-10-29T17:57:00+09:00
2023-11-04T00:47:03+09:00
2023-10-29T17:57:17+09:00
hiro_hrkz
台湾のバス
・博愛路を行く大都会客運の電気バス 華徳RACE150
先日、台湾に行ってきました。
今回も「公」の都合上ですが、往復共に休日の移動になり台北で数時間の猶予ができたので、路線バスを少々観察してみました。
この2年間の特徴は、台湾が進めるバスの電動車化に合わせて各社で電気バスの採用が進んだことです。それでも台北の路線バスの総数が多すぎるため、まだまだそれなりに探す必要はあります。最も、電気バスは特定の系統に集中して投入される傾向にあるので、探すことそのものは楽ですが。
現在、台北で投入されているのは、(1)大陸の厦門金旅、(2)台湾の成運、(3)台湾の華徳、(4)台湾の鴻海の4種類です。先に入った大陸BYDの追加投入はないようです。このあたりは、従来、シャーシなど走り装置は大陸メーカーなどに頼らざるを得なかったバスの国産化を進めるという意図があると思われます。
なお、型式や投入系統などについては、臺灣巴士大全や維基學院、Facebookの台湾バスのコミュニティの情報を参照しています。
(1) 厦門金旅 XML6125JEV・首都客運 EAL-0072 北門・台北客運 EAL-1165 板橋駅・首都客運 EAA-150 板橋駅
2022年に首都客運および台北客運に投入された大陸は厦門金旅製の車両です。その多くが台北を代表するバス路線、307路(板橋~中和~中華路~台北駅~南京東路~撫遠街)に投入されています。車体は創奕能源または弘鉅が大半で、特に両者の間に差は無いようです。
この中の変わり種が首都客運のEAA-150で、金旅オリジナルのMAN風ボディーを架装しています。
(2) 成運 MB120NSE・首都客運 EAL-2011 台北アリーナ・欣欣客運 EAL-1007 重慶南路/襄陽路・国光客運 EAL-2630 北門
一昨年の時点では嘉義などで先行的に導入されていた成運の電気バスですが、同社が政府の電動化推進政策のモデル製造事業者に指定されたこともあるのか台北でも続々と投入されています。一昨年の夏にまず国光客運が投入し、その後、首都、台北、欣欣の各社が導入しています。
国光は従来の白に紫とは全く異なる外装になっているのは、嘉義の車両に同じです。欣欣はRACEを大量増備するなど台北の電気バス投入では一歩リードしている感がありましたが、ここで従来採用の無かった成運も採用し羅斯福(ルーズベルト)路幹線(台北駅~公館~興隆路~木柵~動物園)などに投入しています。
首都客運は292路(二重~菜寮~台北橋~南京路~敦化路~世界貿易センター~燐光)の専属、台北客運は板橋周辺で使用しています。
(3) 華徳 RACE150・大都会客運 EAL-0128 台北駅附近
一昨年の時点では欣欣客運がまとまった台数を投入していただけですが、こちらも政府指定の製造事業者となり、首都、台北、大都会、三重、大南の会社でも採用されるようになりました。ただし今回見ることができたのは大都会客運のみ。262路(民生社区~敦化北路~忠孝路~台北駅~西門~頂渓~景安~土城青雲~宏国徳霖科技大学)で使われています。
なお、台北首都グループ(首都、台北、大都会、三重)の電気バスは、BYDについては従来の車両と異なる特別塗装にしていましたが、金旅、成運、華徳では、外装は同じモチーフとして各社で色違いとする新しい塗装パターンを採用しています。
(3-1) 華徳 KL6120UE1+中興金龍
・指南客運 EAL-1220 北門・光華巴士 EAL-1752 北門
中興グループでは、先に淡水地区で電気バスを運用していましたが、台北中心部の一般路線にも投入が開始されました。淡水地区の車両と同じく華徳のシャーシに自社グループの中興金龍を架装したもので型式も同じですが、車高が若干高くなっているように見えます。全長も他社より短い11m級です(12m級のKL6120UE3も存在するようです)が、このこともあってより短く感じます。なお、塗装は従来の白・赤・青とは全く異なるものとなりました。
鴻海は三重客運が857路(府中~板橋駅~八里)に投入していますが今回は見ることができませんでした。
]]>
水間鉄道の富士7E・8E
http://caw99100.exblog.jp/30457451/
2023-10-08T00:52:00+09:00
2023-10-08T01:00:01+09:00
2023-10-08T00:52:31+09:00
hiro_hrkz
バス(富士重工)
同社は規模が小さいながらも、少々特色のある車両を導入していました。
・水間鉄道 日デU-RM210GAN +富士8E 2000年6月 貝塚駅
1980年代後半~2000年代前半の水鉄は、一般路線車では主に日デといすゞを採用していましたが、自社発注の富士重工は全て日デへの架装事例でした。この頃の主力は中型車で、主に貝塚駅東口を発着する系統で使われていました。
U-RMは1993年に2両、1995年に1両の合計3両を導入しています。いずれもメトロ窓・前後引戸のエアサス車です。なお、この頃のRM+8E/8Bはエアコンのエバポレータ下の柱が太くなります。・水間鉄道 日デU-RP210GAN +富士7E 2000年6月 貝塚市内
中型に交じって9m大型も少数の導入がありました。RMよりも早く、1991年に1両のみを導入しています。仕様はこちらもメトロ窓・前後引戸です。
これらRMとRPはいずれも九州産交に移籍しています。
・水間鉄道 日デP-UA33L +富士7E 2001年8月/2000年6月 貝塚駅
一方で、水間鉄道では大型車の自社発注もありました。これらは、主に熊取駅と和歌山県の粉河を結ぶ特急路線に導入されました。画像のUA33は1990年7月製で1両が導入されました。逆T字窓でハイバックシートを備えるなど、気合が入っている仕様だと思います。なお、ほぼ同形のU-UA440LANを1991年に1両導入していますが、こちらは見ていません。
撮影時は水間駅とショッピングセンターを結ぶ送迎車として使われていました。
・水間鉄道 いすゞU-LV324L +富士7E 2005年4月 貝塚駅
水鉄は貝塚駅の西口から埋立地の工業団地へ向かう路線があり、ここでは主に移籍車の大型車が使われていました。画像はその晩年に入ったもと東武鉄道のいすゞLVで、2両が存在しました。外装を変えたほかはあまり改造をしていませんでした。
このLVを撮影した直後の4月末日、水間鉄道は倒産してしまいます。
なお、倒産後にもとサンプルカーのRPが移籍しましたが、これは以前取り上げているので省略します。
]]>
宇都宮ライトレール開業 (後篇)
http://caw99100.exblog.jp/30449376/
2023-09-26T23:30:00+09:00
2023-09-27T20:58:33+09:00
2023-09-26T23:30:57+09:00
hiro_hrkz
路面電車・低床電車
(前編から続く)
さて、当初の予定では14:00頃には宇都宮に戻ってきて、西口の上河原あたりでバスでも撮ろうか・・・と考えていたのですが、そうは問屋が卸さない。各方面で話題になっていたように、開業後の「ご祝儀乗車」があまりにも多くほぼ無ダイヤ状態となっており、酷い時には40分近く電車が来ませんでした。当然ながら撮影もコンスタントには進まず、もはや他の事は放棄せざるを得ない状況に。
結局この日は、運行の整理がつかなくなったのか、グリーンスタジアム前折り返しの臨時便が運行されました。
上の写真は折り返し電車が下り線から上り線に渡るところです。この電停は特徴ある配線で、上り・下りともに1面2線ですが交差点を挟んで北側が上り、南側が下りと離れています。そして北側には下り線と上り線の渡り線が設けられ、乗降分離したうえでの折り返しが可能な構造になっています。ライトラインの特徴は、路面電車でありながら緩急運転を考慮していることで、2か所(平石、グリーンスタジアム前)で追い越しが可能です。全長14.6kmあり、路面電車とはいえ機能的には市内電車ではなく郊外電車ですから至極納得する部分です。なお、この電停のある場所は工業団地のど真ん中で、直近には工場しかないので注意が必要です(特に夏場)。
つづいて清陵高校前で降りて次の飛山城跡との間で撮影してみました。
ライトラインのハイライトである鬼怒川橋梁の東側にあるこの区間は、橋梁に続く高架上の飛山城跡を出ると上り勾配で小高い丘を越え、次に道路をアンダーパスするために一旦下ります。さらに段丘崖を掘割の中の急勾配で一気に登り清陵高校前に達するという、アップダウンの激しい線形になっています。そのライトラインがアンダーパスする道路から撮影したのが上の4枚です。飛山城跡方面は天望が効きますが、夏なので雑草が勢いよく育っているためそれを交わすのに難儀しました。これから空気が澄む冬になれば日光方面の山をバックに撮影可能ということで、人気が出そうな場所です。それにしても田園と集落の中を真新しい高架線が貫き、そこに低床電車がやってくるというのも見慣れない新しい風景ですね。
なお、現状では清陵高校前からライトラインに沿った道が存在せず、やや遠回りする必要があります。 この時点で夕刻となり、当初予定していた平石小学校前~ベルモール附近はあきらめざるを得なくなりました。最後に下車したのは駅東公園前で、隣の峰との間で国道4号旧バイパスをオーバーパスしています。既存の陸橋の上に軌道を敷いたのが特徴ですが、その発表があったときは驚きの反響があったことを覚えています。これは他の都市に対しても示唆的な点だと思います。電停名の公園にある国鉄EF57を見たあとは宇都宮駅まで歩いて戻りました。もともと駅東は裏口にあたり殺風景な新興ビル街という印象でした。ライトラインの開業を機に注目度も上がっているようで、オリオン通りや二荒山神社を中心とする宇都宮の重心が一気に東側に傾くこともあり得るかもしれません。宇都宮に戻ると、丁度駅に2編成が並んでおり、グリーンスタジアムゆきの臨時が駅前広場を横切って出発してゆきました。最も、ダイヤの乱れで1本の電車が駅前電停に入線できず5分くらい待たされていたのですが・・・ダイヤ乱れは徐々に小さくなっていくとは思いますが、乗客への運行状態の通知方法含めて直近の大きな課題だと感じています。
市内電車ではない路面電車のライトラインですが、駅を越えて西側の旧市街への延伸も計画されています。全長18kmとなれば単独系統では国内でも最長の部類になるでしょう。今後についても希望を感じる路線ですが、まずはその前に今回行けなかった沿線の場所に、混雑が落ち着いた頃に尋ねたいところです。]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/