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カテゴリ:鉄道(旧形電車)( 94 )
水間鉄道 モハ501形
 水間鉄道は1990年8月に架線電圧を直流1500Vに昇圧をして以来、もと東急7000系が走っています。
その直前、600Vの頃に在籍していたのがもと南海1201・1901形のモハ501形(およびクハ551形、サハ581形)でした。かつて、水鉄では雑多な中小形車を使用していましたが、南海電鉄の架線電圧昇圧に伴い大量に廃車となった当形式を1971~1973年に12両譲り受け、車種統一を果たしました。関西でいちばんのミニ電鉄だからできた技でもあるのですが、当時のローカル私鉄では画期的なことでありました。

 最も、南海1201形は製造時期によって外観の差があり、また改造で両運転台車と片運転台車が混在していたので、それなりのバラエティが存在していました。
水間に入線したのは以下のようになります
(★は両運転台車、●は貝塚側片運転台、◎は水間側片運転台)
・1次車が3両(南海モハ139~141→モハ1206~1208→水鉄モハ501★、502★、506◎) 
  全長が220mm短い18080mmで、前面の雨どいが弧を描く
・2次車が3両(南海モハ1212、1214、1215→水鉄モハ504◎、508◎、509●)
  全長が18300mmになり、前面の雨樋が直前、また前面裾にスカートがある。
・4次車が2両(南海クハ1905、1908→サハ1905、1908→水間サハ581、582)
  窓の位置が2次車より1段下げられた3次車を踏襲したが、車内が準戦時設計で簡素化された。
  1905は戦災復旧車ながら、車体が原形になった例外的な個体。
・5次車が3両(南海クハ1912、1913、1914→モハ1239、1240、1237→水鉄モハ503★、510◎、505●)
  戦時設計で、車内の通風対策として1段下降窓を採用した。
・戦災復旧の車体新造車が1両(南海モハ1211→水間モハ507●)
  5次車に準じた車体を持つ

ただし、片運転台でもモハ504、505、506、509には、撤去した運転台の乗務員扉が残っており、一見両運転台に見えるものとなっていました(サハもクハ時代の乗務員扉が残存)。
 また、1984年にはモハ502、504、510の3両を電装解除してクハ551~553にしました。これは蛍光灯を交流化するにあたり、制御器・抵抗器を取り外したスペースにMGを取り付けたため。最も、パンタグラフは残されたため電動車時代とそれほど外観は変わっていません。モハ502→クハ551はこの時に貝塚側の運転台が撤去されています。
このようにして、最終的にはサハ2両が同型であるほかは、全てバラバラの内容となっていました。

なお、主電動機は三菱MB-146SFR(端子電圧750V・定格出力93.3kW)に、主制御器も電空カム軸式のGE製PC-14AもしくはPC-14Nに統一されていました。
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・水間鉄道 モハ501 1989年7月 水間

 さて南海1201形は、南海の昇圧後も貴志川線に10両が残存していましたが、私が乗車した平成元年の時点では随分と異なる印象を持ちました。蛍光灯の変更や前照灯のシールドビーム化は南海でも行われていましたが、車内はニス塗りのままでした。一方で水間の車両は車内はデコラ張りとなり、窓枠はアルミサッシ化。なによりクリーム色に赤と水色の明るい塗装となっており、こちらのほうが随分と「いま風」に感じたものです。この車内のデコラですが、ニス塗時代の形状を踏襲しており、扉の両脇が出っ張っていたのが印象的でした。
 この画像はその際に撮影したものですが、留置車両を撮影しようにも本線のポール等が邪魔でこんな写真しか撮ることができませんでした。おそらくは、当時見た本で、貝塚駅まで行けば車両の撮影ができると思っていたのでしょう。しかし、貝塚は橋上駅舎化の真っ最中で撮影できず・・・行きは阪和線の和泉橋本駅から石才駅まで歩いたことが仇となったわけですが、今思うと何とも残念な話ではあります。
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・水間鉄道 クハ553(保存) 2001年8月 水間

 最も、うれしいことに今でも1両が水間観音駅に保存されています。
一段下降窓を持つモハ510→クハ553で、このときは廃車時の塗装でしたが、現在はその前の赤とクリームに塗られています。

・参考文献
吉川寛・藤井信夫「私鉄車両めぐり73 南海電気鉄道 鉄道線電車[3]」 鉄道ピクトリアル201号(1967年9月)
三木理史「関西地方のローカル私鉄 現況4 水間鉄道」 鉄道ピクトリアル445号(1985年3月増)

by hiro_hrkz | 2019-05-12 01:16 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
高松琴平電気鉄道長尾線 750形750、760
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・高松琴平電気鉄道長尾線 750+870 1998年7月 白山~井戸

 琴電の旧型電車の中でも、とりわけ数奇な運命の持ち主と感じるのが750形でした。
 1951年、日立製作所製。もと備南電気鉄道(宇野~玉)モハ100形101~103となるものの、小林宇一郎氏の研究発表により、未開業に終わった蔵王高速電鉄(山形~半郷~上山、半郷~高湯)の発注車であるとされています。どちらも第2次大戦後に企画された鉄道ですが、蔵王高速は山形~上山の土木工事もかなり進んでいた段階で朝鮮戦争勃発による資材高騰で断念、備南はほぼ完成状態にあった造船所の引込線を流用したものの資金難で1953年4月に開業します。しかし、当初の構想のような児島を経て水島に達する路線には程遠いものでした。
 結局、備南電鉄は3年後の1956年3月に解散し、玉野市に経営を譲渡。その後は玉遊園地前までの路線の延長や交換所の設置などが行われたもの、道路整備が進んだことで旅客は伸びず経営は苦しい状態が続きます。その結果、経費削減のため1964年11月に中古の気動車を購入して内燃動力併用となり、不要となった電車は1965年3月にコトデンに売却されました。なお、玉野市の鉄道は1972年3月31日限りで廃止になっています。
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・高松琴平電気鉄道 760+315 1999年4月 片原町
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・高松琴平電気鉄道 500+760 2000年1月 井戸

 車体長15000mm×幅2640mm。前面が張り上げ屋根であるのは、この時期、民鉄に強力な売り込みをかけていた日立製作所製の電車に共通のスタイル(例としてコトデンの10000形)です。主電動機はHS-267(端子電圧750V・75kw)×4、制御器は電動カム軸式多段制御・自動加速式のMMC(・・・MMC-H-200か?)で高速性を重視、台車はU型イコライザのKBD-104でした。コトデンでは1965年9月に竣工し琴平線に配置、もと102、103、101の順に750形750、760、770となります。前面は非貫通のままでしたが、その後ほどなくして貫通路を取り付けています(少なくとも1969年には取り付けられている)。
 当時のコトデンは、間接非自動式の制御器(いわゆるHL)の車両が多かったものの、他の方式もいくつかあり750形は単独で使用されていました。しかし、ラッシュ時の増解結が頻繁に行われるため間接非自動への統一に動き出し、750形は1974年に同方式に変更されています。台車・主電動機も、もと名鉄3700の1020形に譲り、以降はTDK-596(出力60kw、もと阪神880等)などを装備することになります。
 1974~1975年に750、760が600V化を受けて長尾線に転属、残る770も1976年に転属しています。この頃も750同志で編成を組むことが多く、770は予備車的存在でした。その770が運用に入った1978年11月3日、平木~白山でダンプカーと衝突し廃車になっています。
 なお、屋上のベンチレータは片側3列のT字型ですが、いつの間にか750については撤去されています(少なくとも1976年には無し)。
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・高松琴平電気鉄道 760+860 1998年4月 高田~池戸
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・高松琴平電気鉄道 760+860 1998年7月 元山~水田
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・高松琴平電気鉄道 750+870+62 1998年7月 元山~水田

 750・760は1979年までに1020形由来のブリル27-MCB-2にMB-98A(端子電圧750V・出力74.6kw)を装備することが確認できます。他の長志線電動車の主電動機よりも出力が高いことから、1983年に琴平線から電装解除の上で転属してきた17m級の800番台車と編成を組むことが多くなります。客用扉も木製から金属製に、貫通扉も同様にHゴム支持のものに変更されています。
 1994年の瓦町駅改良に伴う長志線分割では長尾線の所属になり、以降は750は860形870(もと西武→山形交通三山線)、760は同860と編成を組んでいた時期が割合長めだったと思います。上の3枚の画像はいずれもそのころのもの。山形を走っていた電車と山形を走るはずだった電車が編成を組むことに、何か因縁めいたものを感じたものです(・・・蔵王高速にかかわったのは山交ではなく庄内交通の社長なのですが)。
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・高松琴平電気鉄道 760+100 1998年11月 池戸~農学部前
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・高松琴平電気鉄道 750+300 1998年9月 元山~水田

 1998年7月に長尾線にも待望の冷房車、600・700形(もと名古屋市交通局)が入線しますが、この時に単独の制御車を優先して代替することになり860、870は廃車。以降、750形は他の両運転台車と同様の使われ方をすることになります。
この頃の両運転台車は2両がペアになって運用されており、どちらかが検査に入るまではそれが崩れることはほぼありませんでした。しかし、4日に1回、前後が逆になり、また朝は4日に1回、編成をばらされて他の編成の増結に回ったため、実に様々な編成が出現することになります。
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・高松琴平電気鉄道 750+36+35 1999年4月 西前田~高田
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・高松琴平電気鉄道 760+71+500 1999年10月 白山~井戸
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・高松琴平電気鉄道 760+500+315 2000年11月 白山~井戸
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・高松琴平電気鉄道 760+606+605 2000年1月 花園
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・高松琴平電気鉄道 100、750 1999年7月 仏生山

1999年7月、長尾線用600・700形の第3編成が入線した際に、750は自社発注の100と共に廃車。残った760は2001年?に台車・主電動機を長志線で最も多かった、川車BWにTDK-596の組み合わせに変更します。
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・高松琴平電気鉄道 760+120 2002年12月 西前田~高田
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・高松琴平電気鉄道 760 2004年4月 瓦町
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・高松琴平電気鉄道 760+120+325+300 2006年6月 滝宮~陶

2004年には民事再生法適用後の旧型車の標準塗装となった茶色とアイボリーに変更されます。廃車は2006年9月のこと。琴平線ではそれに先立ち、旧型車4両での記念運転が行われました。
 その後は玉野市民有志の尽力により里帰りが実現し、玉野市内で保存されています。
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・2006年6月

・参考文献
真鍋 裕司「私鉄車両めぐり121 高松琴平電鉄[下]」 鉄道ピクトリアル404号(1982年6月)
真鍋 裕司「琴電 近代化への歩み」 鉄道ピクトリアル574号(1993年4月増)
小林 宇一郎「蔵王高速電鉄モハ100形秘話ー琴電750形のルーツ」 鉄道ピクトリアル574号(1993年4月増)
橋本 正夫『RM LIBRARY102 玉野市電気鉄道』 ネコパブリッシング 2008年
寺田 裕一「動く電車博物館Part3 高松琴平電気鉄道」レイル・マガジン33号(1986年9月)
by hiro_hrkz | 2019-01-27 18:02 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
福井鉄道 クハ120形
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・福井鉄道 クハ122+モハ122 2006年2月 市役所前~公園口

 何年か前に、福井鉄道のモハ120について書きましたが、今回はその相手だったクハ120形について記したいと思います。
福鉄福武線の旧型電車は、140形など出自が全く異なる車両が固定編成を組む事例が幾つか見られましたが、これもその一つ。モハ120が1950年日車製の自社発注車なのに対し、こちらは当時の親会社、名古屋鉄道からの譲渡車です。
 もとは名鉄三河線の前身である三河鉄道が1929年1月に日本車輌で製造したデ300形301~302で、HL制御で三菱製の主電動機を搭載。平妻・2段窓なのは、同じ頃に日車で製造された愛電や伊勢電などの車両との共通性がありますが、これは3扉で乗務員扉が無い点が特徴でした。
 名鉄に合併後はモ3000形3001~3002に改番され引き続き三河線などで使用されました。このうちモ3001は1963年に運転台を高運転台に改造され、前面はノーシル・ノーヘッダーになってています。その後、3700系列への機器流用で1966年に廃車。こうした「抜け殻」の鋼製車体は、その多くが名鉄系列の事業者に譲渡されましたが、この2両は福井鉄道に譲渡され南越線に配置されました。
 モ3001がモハ151、モ3002がクハ151となり台車は国鉄のDT10もしくはTR11を履きました。ただし、モハの制御器(HL)、主電動機(三菱MB-98A)の出所はわからず・・・名鉄で流用したのは台車だけだったのでしょうか。

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・福井鉄道 モハ122-2 1993年3月 武生新

 南越線は1971年9月1日に五分市~戸ノ口が部分廃止となり、余剰となったモハ151、クハ152は福武線に転属。クハ151→クハ121、モハ151→クハ122となり、それぞれモハ121、122と固定編成を組むようになります。このとき、連結面側を切り落として全長を詰めています。諸元では、もともとの全長は17594mでしたが、改造後は17195mmとなっています。
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・福井鉄道 クハ122 2006年2月 家久~上鯖江
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・福井鉄道 クハ122 2006年2月 神明
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・福井鉄道 クハ122 車内 2006年2月

 真横から撮影した画像を見ると、台車~連結面間が短くなっていることがわかります。車内から見ると、このようにドアと妻面が隣り合っている状況でした。
 また、前面窓はHゴム支持になり、乗務員扉が新設されています。このときにモハ151→クハ122は低運転台に戻されています。その後、クハ121は1978年、クハ122は1982年に再電装され、モハ121-2、モハ122-2に改番されました。台車は 日車D-16に履き替え、制御器は東洋ES-517、主電動機は三菱MB-98A(60kw)を2台搭載。編成内の主電動機は6機となりました。
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・福井鉄道 クハ122+モハ122 2006年2月 ハーモニーホール~浅水
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・福井鉄道 クハ122+モハ122 2006年2月 神明

 モハ121-2は1987年に廃車、残るモハ122編成は予備車で稼働率が低い状態が続いていました。そんな中、1997年頃に連節車のモハ200形の台車履き替えで発生したND-108をモハ122-1に履かせた際に電装解除され、クハ122に戻りました。その後も稼働率は低い状態のまま、名鉄岐阜600V線から車両を導入する2006年まで在籍していました。

さて、この車両に関しては、従来、名鉄モ3002→福鉄クハ151→クハ122(以下略)としている文献が多くみられますが、車体の特徴から言えば、今回ここに記したように名鉄モ3001→福鉄モハ151→クハ122となると思います。このあたりは、書類上の話と実際の車体の変遷が異なっているのかもしれません。

・参考文献
酒井 英夫「私鉄車両めぐり90 福井鉄道[下]」 鉄道ピクトリアル257号(1971年11月) 電気車研究会
清水 武『RM LIBRARY 187 名鉄木造車鋼体化の系譜』 ネコ・パブリッシング 2015年
清水 武『RM LIBRARY 207 福井鉄道(下)』 ネコ・パブリッシング 2016年

by hiro_hrkz | 2018-11-10 21:02 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
静岡鉄道 クモハ20
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自社発注のステンレスカーが走りぬける静岡鉄道静岡清水線。
その長沼工場に長い間ヌシのように存在していた電車がありました。

 静岡鉄道クモハ20。もとは鶴見臨港鉄道が旅客営業の開始に備え、1930年に製造したモハ100形→モハ110形10両のうちのモハ109→119でした。モハ100形は大半が新潟鉄工所製ですが、このモハ109と110のみが鶴臨と同じ浅野財閥系の浅野造船所製で、両者の間で前面の雨どいや、ウィンドウヘッダーの形状などに差があります。新潟製のほうはのちの銚子電鉄デハ301が有名ですね。
 鶴見臨港鉄道は戦時買収で国鉄鶴見線になりますが、電車は鶴見線の架線電圧昇圧を機に他の買収線に異動。モハ119は富山港線を経て可部線に転属し、雑型形式・番号のモハ1505になったのち1958年に廃車になります。そして、同じく可部線で廃車になったモハ1500(←臨港モハ113←モハ103)、モハ1503(←臨港モハ117←モハ107)と共に静岡鉄道に入線。1500、1503、1505の順にモハ(→クモハ)18~20になりました。このうちクモハ18と19はしばらくしてから2両固定編成となり1968年にクモハ350形に機器流用で廃車になりますが、クモハ20は両運転台であるためか長沼工場の入れ替え用になりました。なお1983年は車籍が抜かれ、以降は工場の機械扱いになっていました。
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・静岡鉄道クモハ20 上:1993年8月 中・下:1998年8月 長沼

いちばん上は1993年の撮影で、出場直後なのか随分と塗装が鮮やかでした。残り2枚はそれから5年後ですが、随分と色あせてしまっていますね。
それはともかく、ヘッドライトは幕板に2個づつつけていますが、一時期的には同社の100形のごとく、窓の下に取り付けれれていた時期もありました。屋上に目を移すと、母線がパンタグラフのある側とは反対の妻にありますが、これはパンタグラフを移設した結果です。工場の建屋の位置関係から、その理由はなんとなく類推できますね。

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一方でよくわからないのが下回り。鶴臨100の原型は、制御器が芝浦RPC(RPC151?)、主電動機は芝浦SE-119I(端子電圧675V、出力56kw)で、台車はモハ119は日車D-16でした。
 しかし、静鉄に入線してからはいろいろと変わったようです。クモハ20の場合、1970年代中頃にはすでにこのブリルになっていました。このタイプの台車を履いてていた車両となると、揖斐川電気モハニ1→近鉄養老線モニ5001が思い出されるところですが真相はいかに・・・たしかに静鉄は名古屋線改軌のときに余剰となった台車を譲り受けているようですが。
 一方、主電動機はTDK-31-SN(端子電圧600V時52kw)と言われています。静鉄では100形でも使われていた主力機種ですがその出所は・・・この型式は名鉄での使用が有名ですが果たして??? そして主制御器はHLになっていることが2つ上の写真から解ります。
そういえば、扉も1970年代前半に木製から鋼製(アルミかもしれませんが)になっています。これもどこから持ってきたものなのか。
 この車両に限った話ではないのですが、静鉄静清線の車両はまとまった研究発表が非常に少なく、残された写真も豊富ではないため、謎が多くあります。電車を自分で作ってしまう長沼工場があり小改造も多かったことが輪をかけているのでしょう。同じ静鉄でも、数多くの発表がある駿遠線やそれなりに画像が出てくる秋葉線と対照的なところです。これは東海道線沿線の現在も元気な他のローカル私鉄(遠鉄西鹿島線、伊豆箱根大雄山線)に共通していることで、なんとも皮肉を感じるところです。

クモハ20は1997年にモーターカーを導入したことで失職。
その後も長沼に置かれていましたが、2007年に解体されました。
by hiro_hrkz | 2018-08-04 02:04 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
野上電気鉄道 モハ20形25~27
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・野上電気鉄道 モハ25 1993年8月 北山~野上中

 野上電気鉄道の元阪神車の中から、今回はもとは阪神901→701形のモハ25~27をとり上げたいと思います。
阪神901形は木造車の291形の車体を載せ替えたもので、1932年に大阪鉄工所と藤永田造船所で10両(901~910)が製造されました。阪神の小型車といえば広い窓幅(に明かり窓付)の車両が思い出されますが、これらはそれより前に登場したもので、幅の狭い一段窓が並んでいます。1940年には701形701~710に改番されています。

本線用の車両の中でもとりわけ小型で性能も低かったことが祟ったのか、戦時中は他の車両に機器を譲るなどして軒並み休車となっていた模様。このうち、戦後も復活できず1954年に廃車になった3両のうち、704(大阪鉄工所製)と710(藤永田製)が野上に譲渡され、まず前者が1955年12月にデハ25として、続いて後者が1957年1月ににデハ26として竣工します。つづいて、1959年に廃車になった707が1960年5月にデハ27として竣工し、3両が揃いました。
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・野上電気鉄道 モハ26 1993年3月 日方
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・野上電気鉄道 モハ27 1993年3月 紀伊野上~動木
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・野上電気鉄道 モハ25 1989年7月 日方

主制御器はGEの電磁接触器式「Mコントロール」の一つである手動加速式のMKで、これはもと阪神。
一方、主電動機については南海から譲り受けたGE-218-B(52kw=70PS)を2機備えています。
そして台車も南海から譲り受けたものですが、25・26はブリル27E-1 1/2を直接取り付けたのに対し、27は一旦2代目モハ31(もと八日市鉄道カハニ101であるデハ23の車体を再利用して1958年に竣工したもの)が履いた加藤ボールドウィンでした。
なお、27は晩年はブリル27MCB系に交換されました。

野上電鉄では1964年にデハからモハに改称。また集電装置もポールからZパンタに変更されています。
細かなところでは3両それぞれテールランプの形状と個数がことなっていました。
上から3枚目、モハ27は俯瞰気味に撮影したものですが、野上の電車のベンチレーターはこのような棒状の特徴ある形状となっていました。パンタグラフから延びる母管がパンタと反対側から車体に潜り込んでいるのも、普段の視線では気がつきにくいところですね。

そして、最晩年・・・昭和60年代に入ってからだと思いますが、31・32と共に雨どいが作り替えられていました。
これにより不格好となってしまった感があり現地訪問時に少々がっかりしたのを思い出します。
そんなことが理由だったのか、野上は車両単体で撮った写真が少なく、下手な風景写真ばかりで、アルバムを見返すと少々後悔している点であったりもします。

・参考文献
藤井信夫 「命脈せまる南紀の電車 -野上電気鉄道-」 鉄道ファン132号(1972年4月) 交友社
高橋修 『RMライブラリ(24) 関西大手私鉄の譲渡者たち(下)』 ネコ・パブリッシング 2001年

by hiro_hrkz | 2018-05-08 00:41 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
日立電鉄 モハ9形モハ10
1929年の開業以来青色吐息の経営状態だった茨城県の常北電気鉄道は、やがて日華事変勃発後、軍需増加に伴う日立製作所の好況で旅客が急増。これにより息を吹き返し、最終的に1944年に同社の傘下に入り日立電鉄と改名します。
それまで2軸車ばかりで運行してきた同線は当然、輸送力不足に陥り、結果、日立製作所製の半鋼製ボギー車を導入しました。これがモハ9形で、5両が計画されていましたが完成したのは1944年10月製の2両にとどまりました。
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・日立電鉄 モハ10 1989年4月 常北太田

車体長13500×車体幅2634mm(最大長14314mm)、自重24tの3扉車。全体的な雰囲気は同じ頃に製造された熊本電気鉄道モハ101~103に似ていますが、全長は熊本のほうが1m少々長い(車体長14686mm)ため、扉間の窓数が1枚異なります。また台車などは全く異なっています。
ともあれ、日製が電装品のみならず車体までを含めて製造した最初期の電車です。

その電装品は、主電動機が出力50kwのHS-253が2機、主制御器が電空カム軸式のPB-200、制動は自動ブレーキ(AMA)となっています。既にこの頃、日立の主制御器は電動カム軸式のMCおよびMMCを製造している中でのPBの採用は不思議なところですが、「日立製作所ニ於テ手持品ヲ充ル」ことを条件に製造されたようなので、死蔵状態にあったものを取り付けたものと邪推するところです。
日立PR・PB系は国鉄CS-3となったものを除けば、保守の面などを理由に各社で置き換えられるのが早かったため、撮影時点では貴重な残存例だったと言えます。
台車は弓型イコライザのH1・・・これもなにかのデッドストックだったのかもしれません。

当初はトロリーポールでの集電でしたがビューゲルを経てパンタグラフに変更。
1963年にはモハ9は鮎川側、モハ10は常北太田側に貫通路を取り付けています。
さらにはアルミサッシ化と前面窓・戸袋窓のHゴムが1970年代後半?に順次実施され、1980~1984年の間にはウィンドウシル(モハ9はヘッダーも)が消滅しています。

1971年にワンマン運転化改造が行われており、マニアが訪れやすい休日日中でも走っていました。
モハ10は日立電鉄の旧型車では最後まで残り、1997年に廃車となりました。

・参考文献
白土 貞夫『RM LIBRARY64 日立電鉄の75年』ネコ・パブリッシング 2004年

by hiro_hrkz | 2018-01-28 02:37 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(1)
上毛電気鉄道 クハ30形
西武鉄道は第二次大戦後、戦災省線とともに木造省電を購入し、そのままの状態もしくは省電50系に準じた車体に所沢工場で鋼体化を行って使用しています。やがて1954年になると、鋼体化に際して台枠を延長して国鉄クハ55に似た20m級車になります。
これがクハ1401形(戦災復旧車を除く)およびクハ1411形で、両者は前面の貫通路の幅、ベンチレータ―、連結面が平妻か切妻かといった差があります。のちにクハ1401形は1411形に統合、またクハ1411の一部は運転台を撤去してサハになっています。

この鋼体化改造、1959年まで続きました。この間に新車は半鋼製でノーシルノーヘッダーの初代501系(電動車はのちの351系)から全金属の2代目501系に変化していますが、こちらはウィンドシル・ヘッダーが外板に露出し、屋根は木造キャンバス張りという半鋼製、それも初代501系より前の仕様のままで増備が続けられました・・・・他社にも似た事例は幾つかありますが、それにしてももうちょっとどうにかならなかったのかとも感じます。そんなに長く使うつもりは無かったということかもしれませんが。

結局のところ1981年までには廃車となりましたが、1977~1980年にクモハ351形とペアで合計8両が上毛電気鉄道に譲渡。同社のクハ30形となりました。
上毛電鉄で入線にあたって、前面の貫通扉をそのまま鋼製でHゴム支持の窓に変えたものと、扉を埋めてHゴム支持の窓を設けたもののがありました。もとクハ1401のクルマは前者だけだったので、都合3種類のバラエティーとなっていました。
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・上毛電気鉄道 クハ34 1990年1月 大胡

ここからは個人的な話。
西武線を走っている頃、おそらく小学校1~2年だったと思いますが、小平のあたりで見て「随分旧い電車だなあ」と思ったことがあります。また、所沢駅南側の池袋線と新宿線の間の留置線・・・いまは所沢折り返しの池袋線電車の引き上げ線になっていますが・・・に、クモハ351形との2両編成2本が暫くの間放置されていたことも覚えています。

上毛電鉄に行けば走っていることは解っていましたが、実際に乗ることができたのは高校1年生のとき。1990年の正月でした。既に、東武3000系が入線しており3編成しか残っていませんでしたが、西桐生から運よく一発で乗ることができました。
その分、この車両を綺麗にとることはできず。大胡の車庫のいちばん北側に留められていたクハ34を無理矢理撮影しただけで終わりました。いまなら、これだけを狙うのでしょうけど、当時は予定どおりに旅程をこなすことで精いっぱいでしたので。
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・上毛電気鉄道 クハ38 車内 1990年1月

こちらは乗車したクハ38の車内。国鉄の2等車を意識したグレーの壁に赤いモケットの座席、
そして、所沢工場独特の細いアルミサッシであることがわかります。
片隅運転台で、助手側はHポールで仕切ってあっただけということもわかりますね。
なお、画面左側にはドアの開閉スイッチが写っています。これは無人駅対策で取り付けられたもののようですね。

ここで取り上げた2両の車歴を書くと
クハ34はもと西武クハ1428、クハ38は同じくクハ1427でいずれも1955年製。
改番が多い西武の旧型車では珍しく?スッキリしたものとなっています。

結局、西武に残っていた351系よりも一足早く上毛電鉄への譲渡車の方が全滅し、
この電車に乗ったのもこれが最初で最後となりました。

by hiro_hrkz | 2017-11-05 23:02 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(2)
庄内交通 モハ1形モハ3
いまから23年前の夏、東北地方の私鉄廃線跡を巡ったときの話は、これまでに何度か(山交三山線モハ同・間沢駅舎山交尾花沢線DB松尾鉱業羽後交通雄勝線デハ秋田県のバスなど)とりあげてきましたが、その際に山形県庄内地方の庄内交通も訪ねています。

ムーンライトで村上へ、そこから羽越線のキハ40系の5連に乗り換えて、まずは羽前水沢へ。
国道沿いのモハ8を見たあとで、鶴岡に一旦出てから旧・善宝寺駅を利用した善宝寺鉄道記念館へと向かいました。
しかし、この頃から既に不定休であり開館している日がわからない状況だったようです。
当日も閉館しており、柵外遠くから保存されているモハ3を見るだけで終わりました。ただし、状態は良かったので、未だ手入れなどがなされていたのでしょう。
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・庄内交通 モハ3 1994年8月 善宝寺鉄道記念館(保存)

さて、庄内交通モハ1形は、庄内電気鉄道として1929年に開業する際に日本車輛で先ずモハ1・2の2両が製造されました。蒲原鉄道デ11形が同型です。翌1930年にモハ3が増備されましたが、扉が窓一つ分車体中央側にずれています。
モハ2は後にモハ5に改番していますが、何故電動車の番号を(モハ8を除いて)奇数に統一したのか不思議なところ・・・似たような事例では、日ノ丸自動車法勝寺鉄道という事例もありますが。

窓が一段式から二段式になったのは、1950年代?の改造の模様。そして、1964年にモハ1・5が、1965年にモハ3が直接制御から間接制御(間接非自動式の模様だが詳細は不明)に改造、客用扉の自動扉化が行われました。

晩年の写真を見ると、もと京王帝都2400のモハ8や、池上電鉄のモハ101・103と編成を組んでいますが、ここで疑問なのが制御装置。出自を考えれば、前者は間接非自動(=手動加速)で単位スイッチ式の三菱HL、後者は間接自動で電動カム軸式の英国EE社(デッカー)系で、通常なら併結はできません。廃線時の写真を見ても特に制御器の変更は行わていないようです。

これは、モハ101・103は常時手動加速として使うようにしていた(東武3070の時に少々触れてますが、デッカーのマスコンM-8Dは、手動加速として使うことができた・・・ただし、モハ101のマスコンが何であったのかは不明)のでしょうか。いろいろと考えるところです。

8年ほど前に現地を再訪しましたが、各所で報告が上がっている通り、放置状態で構内の木は伸び放題。車両も荒廃が進んでいるようでした。ここへアクセスする手段も、23年前は鶴岡~善宝寺~湯野浜温泉のバスは日中40分間隔でしたが、現在は平日6往復、休日4往復にまで激減しています。

by hiro_hrkz | 2017-08-05 23:41 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
名古屋鉄道 ク2320形
 末期の名鉄揖斐・谷汲線の旧型車というと、前面5枚窓で楕円の戸袋窓を持つ510や、黒野から先の主であった750あたりが思い出されるところですが、さらにもう一つ、2両編成の制御車として使われていた2320がありました。
 もとは名古屋鉄道の前身のひとつ、愛知電気鉄道が豊橋方面の路線全通に備えて、日本車輌で製造した電7形デハ3080~3084・3086~3089および附3形サハ3020。揖斐・谷汲線では目立たない存在でしたが、もとを辿れば日本国内のハイスピードインタアーバン用の鋼製車の嚆矢ともいえる存在でした。
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2323 1989年8月 忠節
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2327 上:1994年8月 忠節 下:1989年8月 黒野
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2325 1996年10月 美濃北方
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2326 1996年10月 美濃北方

細かな経緯は省きますが、愛電では神宮前~吉田(豊橋)の特急電車として使用され、名鉄成立後はモ3200形3201~3209およびク2020形2021に改番。戦後2021が電装されて3200に編入されるものの、1950年代後半に入り、HL制御の旧型車の機器流用で3700番台各形式を製造するにあたって、まず3203、3207、3209の3両が電装解除されて片運転台のク2300形2301~2303に。残る7両も1964年に電装解除されやはり片運転台の制御車になるものの、なぜか形式が変わり、ク2320形2321~2327になりました。

1965~66年には600V化の上で、瀬戸線の木造車淘汰のために同線に転属。
このうち2321~2324は900形と固定編成を組み特急用(2321を除く)に、2325~2327は700形と編成を組み普通用になりました。車齢40年超の車両を投入しても体質改善がだいぶ進んだところに、当時の名鉄の事情がうかがえるところですが、それでも普通用の4両は1973年まで客用扉が手動という状態でした。

その後、瀬戸線の昇圧と栄町への地下新線開業で、旧型車は追放されるわけですが、それに前後して4両(2323、2325、2326、2327)が揖斐・谷汲線に転属しました。この時点で車齢50年前後ですが、これでも体質改善となりさらに20年使われたあたり、この路線の置かれた状況を如実に表していると思います。

今回は、その揖斐・谷汲線の4両すべての画像を並べてみました。
窓はアルミサッシで客用扉はHゴム支持の窓を持つ鋼製になっている点は各車に共通しています。
しかし、前面を見ると各車その構成はバラバラで、2327は貫通扉の窓が小さく、2325は助手側の窓が2段窓、そして2326は1962年の事故復旧の際に高運転台に改造されています。戸袋窓も基本はHゴム支持ですが2325のみアルミサッシ。
屋上のベンチレータの数も車両によってまちまち、さらには前面の尾灯も車両によって形状がことなっていますね。

乗務員扉は製造当初からの位置ですが、引戸で幅が狭いことが2327の写真からわかると思います。
またその窓がHゴム支持の固定窓になっていたのも、少々変わっている点ですね。
台車はブルリ系となっていますが、数種類あった模様。

廃車は1997年4月のこと。新車・780形の投入に伴うでした。
まさかその8年後に路線ごと無くなるとは思いもしませんでしたが。

by hiro_hrkz | 2017-05-10 01:35 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
江ノ島電鉄 300形301、306
江ノ電のかつての主力車両といえば300形。6編成が存在しました。
最も、同じ形式にまとめられていても、その中身は種車も形もバラバラだったのは御周知のとおりです。
2000形などの増備で置き換えられていましたが、真っ先に廃車対象になったのが、1927年に製造された、もと王子電気軌道200形(都電150・170形)の車体を持つ、301+351と306+356でした。
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・江ノ島電鉄 301+351  1991年5月 極楽寺

トップナンバーの301+351は、1956年に東洋工機・東洋電機で改造されました。
1953年に都電150形153、154と、同杉並線260形の台車を組み合わせて入線した113、114(いずれも2代目)が種車です。

片方の車端を切妻に改造し、ドアを中間よりにした車体を2つ接合したようなもの。王子電軌200形は窓配置が1D11D1、301は改造当初は1D10D2でした。なお、連節車にする際に、客室の扉は上方向に拡大しています。その後、1970年代初頭に乗務員扉の設置が行われ、客用扉は車体中央側に移設されています。これにより扉間の窓数は9枚に変化しました。

 江ノ電の電車は1979年頃にヘッドライト・テールライトを全車窓下に2灯づつ装備するように改造を受けていますが、この車両はそのケーシングが一体化しているのが他車にない特徴でした。また他の編成が両端の台車に主電動機を2機づつ取り付けているに対し、この編成だけ両端の台車に1機、連節部の台車に2機取り付けていました。
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・江ノ島電鉄 306+356 (隣は108) 1991年5月 江ノ島 

一方、ラストナンバーの306+356は、江ノ電唯一の連結車だった112→201・202を1968年に東横車両で改造したもの。
112は、西武荻窪線の木造車32を1934年に譲り受けたもので、1953年に都電150形の車体に振り替えられています。202は、夏季だけ運行された納涼電車の車体に静岡鉄道の台車を組み合わせて1949年に登場。1954年に都電174の車体に振り替えられています。両方とも、車体振り替えの時点で客用窓が2段窓に改造されており、後々まで301編成と異なる点の一つとして現れます。

301に先立ち1955年に、やはり東洋工機で連結車に改造されました。
客用扉が上方に拡大されているのは、こちらも同じ。

連節車への再改造時に車体は更新され、ノーシル・ノーヘッダーに。またヘッドライト・テールライトは当初より窓下に2灯りづつ装備されていました。窓配置は乗務員扉設置前の301に近いものですが、こちらは客用扉を拡幅したため、扉間の窓数が8枚・かつ戸袋窓だけ幅が広いものになっています。
しかし、種車のメーカーが異なる(都電150形:田中車両、170形:川崎車輛)ため、雨どいの高さが異なる点には手を付けられず、最後まで300形の中でブサイクと言われるゆえんになりました。1970年代に乗務員扉の設置が行われています。
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300形の特徴は、車体のみならず台車にもありました。
その多くは、旧式の台車を大改造したものです。
画像は301の台車。
揺れ枕から板バネとハンガーで台車枠に連結する旧式の台車を、コイルばねとオイルダンパーで連結する近代的なものにしていますが、無理矢理感は否めず。今ならばもっと細かく観察するところですが、このときはこれを撮影しただけで終わりました。

306は1991年、301は1992年に廃車になっています。


by hiro_hrkz | 2017-02-02 01:55 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)