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カテゴリ:鉄道(旧形電車)( 91 )
静岡鉄道 クモハ20
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自社発注のステンレスカーが走りぬける静岡鉄道静岡清水線。
その長沼工場に長い間ヌシのように存在していた電車がありました。

 静岡鉄道クモハ20。もとは鶴見臨港鉄道が旅客営業の開始に備え、1930年に製造したモハ100形→モハ110形10両のうちのモハ109→119でした。モハ100形は大半が新潟鉄工所製ですが、このモハ109と110のみが鶴臨と同じ浅野財閥系の浅野造船所製で、両者の間で前面の雨どいや、ウィンドウヘッダーの形状などに差があります。新潟製のほうはのちの銚子電鉄デハ301が有名ですね。
 鶴見臨港鉄道は戦時買収で国鉄鶴見線になりますが、電車は鶴見線の架線電圧昇圧を機に他の買収線に異動。モハ119は富山港線を経て可部線に転属し、雑型形式・番号のモハ1505になったのち1958年に廃車になります。そして、同じく可部線で廃車になったモハ1500(←臨港モハ113←モハ103)、モハ1503(←臨港モハ117←モハ107)と共に静岡鉄道に入線。1500、1503、1505の順にモハ(→クモハ)18~20になりました。このうちクモハ18と19はしばらくしてから2両固定編成となり1968年にクモハ350形に機器流用で廃車になりますが、クモハ20は両運転台であるためか長沼工場の入れ替え用になりました。なお1983年は車籍が抜かれ、以降は工場の機械扱いになっていました。
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・静岡鉄道クモハ20 上:1993年8月 中・下:1998年8月 長沼

いちばん上は1993年の撮影で、出場直後なのか随分と塗装が鮮やかでした。残り2枚はそれから5年後ですが、随分と色あせてしまっていますね。
それはともかく、ヘッドライトは幕板に2個づつつけていますが、一時期的には同社の100形のごとく、窓の下に取り付けれれていた時期もありました。屋上に目を移すと、母線がパンタグラフのある側とは反対の妻にありますが、これはパンタグラフを移設した結果です。工場の建屋の位置関係から、その理由はなんとなく類推できますね。

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一方でよくわからないのが下回り。鶴臨100の原型は、制御器が芝浦RPC(RPC151?)、主電動機は芝浦SE-119I(端子電圧675V、出力56kw)で、台車はモハ119は日車D-16でした。
 しかし、静鉄に入線してからはいろいろと変わったようです。クモハ20の場合、1970年代中頃にはすでにこのブリルになっていました。このタイプの台車を履いてていた車両となると、揖斐川電気モハニ1→近鉄養老線モニ5001が思い出されるところですが真相はいかに・・・たしかに静鉄は名古屋線改軌のときに余剰となった台車を譲り受けているようですが。
 一方、主電動機はTDK-31-SN(端子電圧600V時52kw)と言われています。静鉄では100形でも使われていた主力機種ですがその出所は・・・この型式は名鉄での使用が有名ですが果たして??? そして主制御器はHLになっていることが2つ上の写真から解ります。
そういえば、扉も1970年代前半に木製から鋼製(アルミかもしれませんが)になっています。これもどこから持ってきたものなのか。
 この車両に限った話ではないのですが、静鉄静清線の車両はまとまった研究発表が非常に少なく、残された写真も豊富ではないため、謎が多くあります。電車を自分で作ってしまう長沼工場があり小改造も多かったことが輪をかけているのでしょう。同じ静鉄でも、数多くの発表がある駿遠線やそれなりに画像が出てくる秋葉線と対照的なところです。これは東海道線沿線の現在も元気な他のローカル私鉄(遠鉄西鹿島線、伊豆箱根大雄山線)に共通していることで、なんとも皮肉を感じるところです。

クモハ20は1997年にモーターカーを導入したことで失職。
その後も長沼に置かれていましたが、2007年に解体されました。
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by hiro_hrkz | 2018-08-04 02:04 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
野上電気鉄道 モハ20形25~27
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・野上電気鉄道 モハ25 1993年8月 北山~野上中

 野上電気鉄道の元阪神車の中から、今回はもとは阪神901→701形のモハ25~27をとり上げたいと思います。
阪神901形は木造車の291形の車体を載せ替えたもので、1932年に大阪鉄工所と藤永田造船所で10両(901~910)が製造されました。阪神の小型車といえば広い窓幅(に明かり窓付)の車両が思い出されますが、これらはそれより前に登場したもので、幅の狭い一段窓が並んでいます。1940年には701形701~710に改番されています。

本線用の車両の中でもとりわけ小型で性能も低かったことが祟ったのか、戦時中は他の車両に機器を譲るなどして軒並み休車となっていた模様。このうち、戦後も復活できず1954年に廃車になった3両のうち、704(大阪鉄工所製)と710(藤永田製)が野上に譲渡され、まず前者が1955年12月にデハ25として、続いて後者が1957年1月ににデハ26として竣工します。つづいて、1959年に廃車になった707が1960年5月にデハ27として竣工し、3両が揃いました。
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・野上電気鉄道 モハ26 1993年3月 日方
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・野上電気鉄道 モハ27 1993年3月 紀伊野上~動木
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・野上電気鉄道 モハ25 1989年7月 日方

主制御器はGEの電磁接触器式「Mコントロール」の一つである手動加速式のMKで、これはもと阪神。
一方、主電動機については南海から譲り受けたGE-218-B(52kw=70PS)を2機備えています。
そして台車も南海から譲り受けたものですが、25・26はブリル27E-1 1/2を直接取り付けたのに対し、27は一旦2代目モハ31(もと八日市鉄道カハニ101であるデハ23の車体を再利用して1958年に竣工したもの)が履いた加藤ボールドウィンでした。
なお、27は晩年はブリル27MCB系に交換されました。

野上電鉄では1964年にデハからモハに改称。また集電装置もポールからZパンタに変更されています。
細かなところでは3両それぞれテールランプの形状と個数がことなっていました。
上から3枚目、モハ27は俯瞰気味に撮影したものですが、野上の電車のベンチレーターはこのような棒状の特徴ある形状となっていました。パンタグラフから延びる母管がパンタと反対側から車体に潜り込んでいるのも、普段の視線では気がつきにくいところですね。

そして、最晩年・・・昭和60年代に入ってからだと思いますが、31・32と共に雨どいが作り替えられていました。
これにより不格好となってしまった感があり現地訪問時に少々がっかりしたのを思い出します。
そんなことが理由だったのか、野上は車両単体で撮った写真が少なく、下手な風景写真ばかりで、アルバムを見返すと少々後悔している点であったりもします。

・参考文献
藤井信夫 「命脈せまる南紀の電車 -野上電気鉄道-」 鉄道ファン132号(1972年4月) 交友社
高橋修 『RMライブラリ(24) 関西大手私鉄の譲渡者たち(下)』 ネコ・パブリッシング 2001年

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by hiro_hrkz | 2018-05-08 00:41 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
日立電鉄 モハ9形モハ10
1929年の開業以来青色吐息の経営状態だった茨城県の常北電気鉄道は、やがて日華事変勃発後、軍需増加に伴う日立製作所の好況で旅客が急増。これにより息を吹き返し、最終的に1944年に同社の傘下に入り日立電鉄と改名します。
それまで2軸車ばかりで運行してきた同線は当然、輸送力不足に陥り、結果、日立製作所製の半鋼製ボギー車を導入しました。これがモハ9形で、5両が計画されていましたが完成したのは1944年10月製の2両にとどまりました。
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・日立電鉄 モハ10 1989年4月 常北太田

車体長13500×車体幅2634mm(最大長14314mm)、自重24tの3扉車。全体的な雰囲気は同じ頃に製造された熊本電気鉄道モハ101~103に似ていますが、全長は熊本のほうが1m少々長い(車体長14686mm)ため、扉間の窓数が1枚異なります。また台車などは全く異なっています。
ともあれ、日製が電装品のみならず車体までを含めて製造した最初期の電車です。

その電装品は、主電動機が出力50kwのHS-253が2機、主制御器が電空カム軸式のPB-200、制動は自動ブレーキ(AMA)となっています。既にこの頃、日立の主制御器は電動カム軸式のMCおよびMMCを製造している中でのPBの採用は不思議なところですが、「日立製作所ニ於テ手持品ヲ充ル」ことを条件に製造されたようなので、死蔵状態にあったものを取り付けたものと邪推するところです。
日立PR・PB系は国鉄CS-3となったものを除けば、保守の面などを理由に各社で置き換えられるのが早かったため、撮影時点では貴重な残存例だったと言えます。
台車は弓型イコライザのH1・・・これもなにかのデッドストックだったのかもしれません。

当初はトロリーポールでの集電でしたがビューゲルを経てパンタグラフに変更。
1963年にはモハ9は鮎川側、モハ10は常北太田側に貫通路を取り付けています。
さらにはアルミサッシ化と前面窓・戸袋窓のHゴムが1970年代後半?に順次実施され、1980~1984年の間にはウィンドウシル(モハ9はヘッダーも)が消滅しています。

1971年にワンマン運転化改造が行われており、マニアが訪れやすい休日日中でも走っていました。
モハ10は日立電鉄の旧型車では最後まで残り、1997年に廃車となりました。

・参考文献
白土 貞夫『RM LIBRARY64 日立電鉄の75年』ネコ・パブリッシング 2004年

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by hiro_hrkz | 2018-01-28 02:37 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(1)
上毛電気鉄道 クハ30形
西武鉄道は第二次大戦後、戦災省線とともに木造省電を購入し、そのままの状態もしくは省電50系に準じた車体に所沢工場で鋼体化を行って使用しています。やがて1954年になると、鋼体化に際して台枠を延長して国鉄クハ55に似た20m級車になります。
これがクハ1401形(戦災復旧車を除く)およびクハ1411形で、両者は前面の貫通路の幅、ベンチレータ―、連結面が平妻か切妻かといった差があります。のちにクハ1401形は1411形に統合、またクハ1411の一部は運転台を撤去してサハになっています。

この鋼体化改造、1959年まで続きました。この間に新車は半鋼製でノーシルノーヘッダーの初代501系(電動車はのちの351系)から全金属の2代目501系に変化していますが、こちらはウィンドシル・ヘッダーが外板に露出し、屋根は木造キャンバス張りという半鋼製、それも初代501系より前の仕様のままで増備が続けられました・・・・他社にも似た事例は幾つかありますが、それにしてももうちょっとどうにかならなかったのかとも感じます。そんなに長く使うつもりは無かったということかもしれませんが。

結局のところ1981年までには廃車となりましたが、1977~1980年にクモハ351形とペアで合計8両が上毛電気鉄道に譲渡。同社のクハ30形となりました。
上毛電鉄で入線にあたって、前面の貫通扉をそのまま鋼製でHゴム支持の窓に変えたものと、扉を埋めてHゴム支持の窓を設けたもののがありました。もとクハ1401のクルマは前者だけだったので、都合3種類のバラエティーとなっていました。
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・上毛電気鉄道 クハ34 1990年1月 大胡

ここからは個人的な話。
西武線を走っている頃、おそらく小学校1~2年だったと思いますが、小平のあたりで見て「随分旧い電車だなあ」と思ったことがあります。また、所沢駅南側の池袋線と新宿線の間の留置線・・・いまは所沢折り返しの池袋線電車の引き上げ線になっていますが・・・に、クモハ351形との2両編成2本が暫くの間放置されていたことも覚えています。

上毛電鉄に行けば走っていることは解っていましたが、実際に乗ることができたのは高校1年生のとき。1990年の正月でした。既に、東武3000系が入線しており3編成しか残っていませんでしたが、西桐生から運よく一発で乗ることができました。
その分、この車両を綺麗にとることはできず。大胡の車庫のいちばん北側に留められていたクハ34を無理矢理撮影しただけで終わりました。いまなら、これだけを狙うのでしょうけど、当時は予定どおりに旅程をこなすことで精いっぱいでしたので。
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・上毛電気鉄道 クハ38 車内 1990年1月

こちらは乗車したクハ38の車内。国鉄の2等車を意識したグレーの壁に赤いモケットの座席、
そして、所沢工場独特の細いアルミサッシであることがわかります。
片隅運転台で、助手側はHポールで仕切ってあっただけということもわかりますね。
なお、画面左側にはドアの開閉スイッチが写っています。これは無人駅対策で取り付けられたもののようですね。

ここで取り上げた2両の車歴を書くと
クハ34はもと西武クハ1428、クハ38は同じくクハ1427でいずれも1955年製。
改番が多い西武の旧型車では珍しく?スッキリしたものとなっています。

結局、西武に残っていた351系よりも一足早く上毛電鉄への譲渡車の方が全滅し、
この電車に乗ったのもこれが最初で最後となりました。

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by hiro_hrkz | 2017-11-05 23:02 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(2)
庄内交通 モハ1形モハ3
いまから23年前の夏、東北地方の私鉄廃線跡を巡ったときの話は、これまでに何度か(山交三山線モハ同・間沢駅舎山交尾花沢線DB松尾鉱業羽後交通雄勝線デハ秋田県のバスなど)とりあげてきましたが、その際に山形県庄内地方の庄内交通も訪ねています。

ムーンライトで村上へ、そこから羽越線のキハ40系の5連に乗り換えて、まずは羽前水沢へ。
国道沿いのモハ8を見たあとで、鶴岡に一旦出てから旧・善宝寺駅を利用した善宝寺鉄道記念館へと向かいました。
しかし、この頃から既に不定休であり開館している日がわからない状況だったようです。
当日も閉館しており、柵外遠くから保存されているモハ3を見るだけで終わりました。ただし、状態は良かったので、未だ手入れなどがなされていたのでしょう。
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・庄内交通 モハ3 1994年8月 善宝寺鉄道記念館(保存)

さて、庄内交通モハ1形は、庄内電気鉄道として1929年に開業する際に日本車輛で先ずモハ1・2の2両が製造されました。蒲原鉄道デ11形が同型です。翌1930年にモハ3が増備されましたが、扉が窓一つ分車体中央側にずれています。
モハ2は後にモハ5に改番していますが、何故電動車の番号を(モハ8を除いて)奇数に統一したのか不思議なところ・・・似たような事例では、日ノ丸自動車法勝寺鉄道という事例もありますが。

窓が一段式から二段式になったのは、1950年代?の改造の模様。そして、1964年にモハ1・5が、1965年にモハ3が直接制御から間接制御(間接非自動式の模様だが詳細は不明)に改造、客用扉の自動扉化が行われました。

晩年の写真を見ると、もと京王帝都2400のモハ8や、池上電鉄のモハ101・103と編成を組んでいますが、ここで疑問なのが制御装置。出自を考えれば、前者は間接非自動(=手動加速)で単位スイッチ式の三菱HL、後者は間接自動で電動カム軸式の英国EE社(デッカー)系で、通常なら併結はできません。廃線時の写真を見ても特に制御器の変更は行わていないようです。

これは、モハ101・103は常時手動加速として使うようにしていた(東武3070の時に少々触れてますが、デッカーのマスコンM-8Dは、手動加速として使うことができた・・・ただし、モハ101のマスコンが何であったのかは不明)のでしょうか。いろいろと考えるところです。

8年ほど前に現地を再訪しましたが、各所で報告が上がっている通り、放置状態で構内の木は伸び放題。車両も荒廃が進んでいるようでした。ここへアクセスする手段も、23年前は鶴岡~善宝寺~湯野浜温泉のバスは日中40分間隔でしたが、現在は平日6往復、休日4往復にまで激減しています。

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by hiro_hrkz | 2017-08-05 23:41 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
名古屋鉄道 ク2320形
 末期の名鉄揖斐・谷汲線の旧型車というと、前面5枚窓で楕円の戸袋窓を持つ510や、黒野から先の主であった750あたりが思い出されるところですが、さらにもう一つ、2両編成の制御車として使われていた2320がありました。
 もとは名古屋鉄道の前身のひとつ、愛知電気鉄道が豊橋方面の路線全通に備えて、日本車輌で製造した電7形デハ3080~3084・3086~3089および附3形サハ3020。揖斐・谷汲線では目立たない存在でしたが、もとを辿れば日本国内のハイスピードインタアーバン用の鋼製車の嚆矢ともいえる存在でした。
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2323 1989年8月 忠節
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2327 上:1994年8月 忠節 下:1989年8月 黒野
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2325 1996年10月 美濃北方
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・名古屋鉄道揖斐線 ク2326 1996年10月 美濃北方

細かな経緯は省きますが、愛電では神宮前~吉田(豊橋)の特急電車として使用され、名鉄成立後はモ3200形3201~3209およびク2020形2021に改番。戦後2021が電装されて3200に編入されるものの、1950年代後半に入り、HL制御の旧型車の機器流用で3700番台各形式を製造するにあたって、まず3203、3207、3209の3両が電装解除されて片運転台のク2300形2301~2303に。残る7両も1964年に電装解除されやはり片運転台の制御車になるものの、なぜか形式が変わり、ク2320形2321~2327になりました。

1965~66年には600V化の上で、瀬戸線の木造車淘汰のために同線に転属。
このうち2321~2324は900形と固定編成を組み特急用(2321を除く)に、2325~2327は700形と編成を組み普通用になりました。車齢40年超の車両を投入しても体質改善がだいぶ進んだところに、当時の名鉄の事情がうかがえるところですが、それでも普通用の4両は1973年まで客用扉が手動という状態でした。

その後、瀬戸線の昇圧と栄町への地下新線開業で、旧型車は追放されるわけですが、それに前後して4両(2323、2325、2326、2327)が揖斐・谷汲線に転属しました。この時点で車齢50年前後ですが、これでも体質改善となりさらに20年使われたあたり、この路線の置かれた状況を如実に表していると思います。

今回は、その揖斐・谷汲線の4両すべての画像を並べてみました。
窓はアルミサッシで客用扉はHゴム支持の窓を持つ鋼製になっている点は各車に共通しています。
しかし、前面を見ると各車その構成はバラバラで、2327は貫通扉の窓が小さく、2325は助手側の窓が2段窓、そして2326は1962年の事故復旧の際に高運転台に改造されています。戸袋窓も基本はHゴム支持ですが2325のみアルミサッシ。
屋上のベンチレータの数も車両によってまちまち、さらには前面の尾灯も車両によって形状がことなっていますね。

乗務員扉は製造当初からの位置ですが、引戸で幅が狭いことが2327の写真からわかると思います。
またその窓がHゴム支持の固定窓になっていたのも、少々変わっている点ですね。
台車はブルリ系となっていますが、数種類あった模様。

廃車は1997年4月のこと。新車・780形の投入に伴うでした。
まさかその8年後に路線ごと無くなるとは思いもしませんでしたが。

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by hiro_hrkz | 2017-05-10 01:35 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
江ノ島電鉄 300形301、306
江ノ電のかつての主力車両といえば300形。6編成が存在しました。
最も、同じ形式にまとめられていても、その中身は種車も形もバラバラだったのは御周知のとおりです。
2000形などの増備で置き換えられていましたが、真っ先に廃車対象になったのが、1927年に製造された、もと王子電気軌道200形(都電150・170形)の車体を持つ、301+351と306+356でした。
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・江ノ島電鉄 301+351  1991年5月 極楽寺

トップナンバーの301+351は、1956年に東洋工機・東洋電機で改造されました。
1953年に都電150形153、154と、同杉並線260形の台車を組み合わせて入線した113、114(いずれも2代目)が種車です。

片方の車端を切妻に改造し、ドアを中間よりにした車体を2つ接合したようなもの。王子電軌200形は窓配置が1D11D1、301は改造当初は1D10D2でした。なお、連節車にする際に、客室の扉は上方向に拡大しています。その後、1970年代初頭に乗務員扉の設置が行われ、客用扉は車体中央側に移設されています。これにより扉間の窓数は9枚に変化しました。

 江ノ電の電車は1979年頃にヘッドライト・テールライトを全車窓下に2灯づつ装備するように改造を受けていますが、この車両はそのケーシングが一体化しているのが他車にない特徴でした。また他の編成が両端の台車に主電動機を2機づつ取り付けているに対し、この編成だけ両端の台車に1機、連節部の台車に2機取り付けていました。
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・江ノ島電鉄 306+356 (隣は108) 1991年5月 江ノ島 

一方、ラストナンバーの306+356は、江ノ電唯一の連結車だった112→201・202を1968年に東横車両で改造したもの。
112は、西武荻窪線の木造車32を1934年に譲り受けたもので、1953年に都電150形の車体に振り替えられています。202は、夏季だけ運行された納涼電車の車体に静岡鉄道の台車を組み合わせて1949年に登場。1954年に都電174の車体に振り替えられています。両方とも、車体振り替えの時点で客用窓が2段窓に改造されており、後々まで301編成と異なる点の一つとして現れます。

301に先立ち1955年に、やはり東洋工機で連結車に改造されました。
客用扉が上方に拡大されているのは、こちらも同じ。

連節車への再改造時に車体は更新され、ノーシル・ノーヘッダーに。またヘッドライト・テールライトは当初より窓下に2灯りづつ装備されていました。窓配置は乗務員扉設置前の301に近いものですが、こちらは客用扉を拡幅したため、扉間の窓数が8枚・かつ戸袋窓だけ幅が広いものになっています。
しかし、種車のメーカーが異なる(都電150形:田中車両、170形:川崎車輛)ため、雨どいの高さが異なる点には手を付けられず、最後まで300形の中でブサイクと言われるゆえんになりました。1970年代に乗務員扉の設置が行われています。
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300形の特徴は、車体のみならず台車にもありました。
その多くは、旧式の台車を大改造したものです。
画像は301の台車。
揺れ枕から板バネとハンガーで台車枠に連結する旧式の台車を、コイルばねとオイルダンパーで連結する近代的なものにしていますが、無理矢理感は否めず。今ならばもっと細かく観察するところですが、このときはこれを撮影しただけで終わりました。

306は1991年、301は1992年に廃車になっています。


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by hiro_hrkz | 2017-02-02 01:55 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
高松琴平電気鉄道 20形
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・高松琴平電気鉄道 23+120+300+500 2015年5月 岡本~円座

高松琴平電気鉄道が現在動態保存している4両のうち、唯一、他社からの譲渡車両であるのが20形23。製造も最も古い1925年(大正14年)で、今年で実に91年になります。今回はこの20形のうち、珊瑚色と牡蠣色のツートンで、通常に運行されていた1990~2002年の画像を中心にまとめたいと思います。
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・高松琴平電気鉄道 22 1998年11月 今橋
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・高松琴平電気鉄道 21+22 1998年9月 今橋

20形は、もとは現在の近鉄南大阪線等を保有していた大阪鉄道のデロ形。同社初の半鋼製車で川崎造船製の21~25と大阪鉄工所製の26・27がありました。1943年に大鉄が関西急行鉄道(近鉄)に吸収後、モ5621形5621~5627に改番されています。
1923年製造の大鉄最初の電車である木造車のデイ形に準じた形態で、14m級3扉・前面は5枚窓、側面は2枚一組の窓でその上には上辺が弧を描く明かり窓が設けられていました。床下にはトラス棒付きなのは、この時期の鋼製車らしいところ。

近鉄からコトデンへの譲渡は1961年のこと。川崎造船製の5621~5624がやってきました。
これに関してよく「南大阪線は狭軌であるため信貴生駒電鉄の台車を組み合わせて入線した」と書かれています。が、この4両は、南大阪線の特急「かもしか」運転にあたり、クニ5421~5424(もと伊勢電鉄モハニ231形)を電装してモ5821~5824にする際に、主電動機を供出して廃車になっているため、どのみち下まわりは手配する必要性があったのでしょう。
エリエイの「レイル 」57号だったと思いますが、コトデンに搬入された車体がダルマ状態で置かれている写真が掲載されており、床下機器そのものも、どの程度流用されているのか気になるところです。

そして台車(ボールドウィン) ・主電動機(GE-240B)のほうも信貴生駒電鉄(現在の近鉄生駒線)から購入とされているものの、同社にはこの台車を履いた車両はおらず、少々疑問に感じます。この装備は、大阪電気軌道の木造車・デボ61形(のちの近鉄モ261形)以降の装備と考えるのが妥当ではあるものの、1961年の時点では未だ殆どが近鉄で現役で走っていました。同社に貸し出されていた近鉄の木造車に転用されて履いていたという意味なのか、それとも予備備品を同社が保有していたのか・・・。
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・高松琴平電気鉄道 23 1998年9月 今橋 貫通路の踏み板が上がっている状態なのは珍しい。

 琴電では運転席まわりを大改造し、平妻にHゴム支持の窓、引き戸の貫通扉となりました。昭和30年代に改造された65や230、あるいは610といった車両との共通性がありますね。切妻に改造したのは、もと京浜急行の10形・90形の運転台が狭小で評判が悪かったことも影響しているのではないかと邪推するところです。なお、運転席の側面の窓は上段がHゴム固定の2段窓になりました。
 側面の明かり窓は、5621→21、5623→23は近鉄時代に埋められていましたが、残りは、ガラス部分は板になっていたものの、彫刻が残っていました。その後、24は埋められ、22も彫刻は無くなり窓の形跡だけとなっています。この改造がそれぞれいつ行われたのか・・・昭和40年代の琴電の写真で発表されているものは少なく、何時かはわかりませんでした。1973年よりも前なことくらいで・・・。

1976年には、痛みの激しかった23が更新工事を受けています。外板は全面的に張り替えたようで、リベットが消滅、ウィンドウヘッダーは埋め込まれ、ウィンドウシルが段付きが平板に、戸袋窓がHゴムになりました。この車両だけ車番が切り抜き文字ではなく、ペンキ書きだったのはこれが理由のようです。
そういえば、23だけ非パンタ側(築港・志度側)に貫通幌の座がついていましたね・・・コトデンには他にもこの形跡がある車両がありましたが、同社は先頭に貫通幌を装備しておらず一体なんだったのか。

1980年代前半には廃車が取りざたされたものの、結局、長志線で使うことになり、1988年頃~1992年に、残りの3両も23に準じた更新を受けています。このときに、22の明かり窓跡は完全にふさがれました。23も再度更新され、屋上のベンチレータが撤去されたようです。
 このときに、全車両運転台部分側面の窓が1段窓に改造されていますが、どういうわけか22、24と21、23でその高さが異なっています。
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・高松琴平電気鉄道 23+24 2001年12月 沖松島~春日川 昼間に2連で特別に走らせたときのもの
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・高松琴平電気鉄道 24+230 1997年7月 春日川 通常345がペアだった230と珍しく編成を組んでいた

この車両が入線した当時(というか、もと名古屋市営の車両が入線するまで)、コトデンは長尾・志度線の車両は2桁の番号、琴平線が3桁または4桁の番号でした。従って、この車両も志度線での使用を目論んでいたようですが、結局は琴平線に配置され、代わりに3000形が志度線に転出しています。
 その理由は、先に記した主電動機GE-240Bが定格出力97kwと出力が高かったことがあげられるかもしれません。琴平線では大型の制御車(950形=国鉄オハ31改造、850形=もと南武鉄道 等)と連結して使うことが多かったようです。
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・高松琴平電気鉄道 22+21 1993年8月 瓦町 前面の行先板が旧式。

昭和50年代になると琴平線から志度線に転属がはじまり、昭和60年頃には全車が志度線に揃います。志度線では2連で使われることが多かったようです・・・そういえば、長尾線に入線している写真は見ませんね。

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・高松琴平電気鉄道 21+335+890 1997年7月 春日川 コトデンそごう開業直後で昼間も3連が走っていた
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・高松琴平電気鉄道 22+27+28 1997年7月 今橋
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・高松琴平電気鉄道 24+621+622 1998年9月 今橋

その後、1993年に瓦町駅改築に伴い志度線が分断され、同線に閉じ込められます。
このあとは、増結用として使われることが多くなりました。
もと京浜急行の30形と連結すると、窓の大きさや車高の違いが目立ちますね。また、もと名古屋市営の600形とは実にアンバランスな編成となりましたが、これ自体はコトデンを見慣れていると、逆にそう違和感もなく・・・(笑)。

ということで、20形のあらましと画像を並べてみましたが、東西方向に走る志度線で基本朝しか走らない、しかも基本的に瓦町側(=西側)に連結という状態では光線状態など望むべくもなく・・・なかなか見苦しい写真ばかりなのはご勘弁を。この頃、結構な頻度で高松へ行きましたが、主眼は編成も車両もバラエティー豊富な長尾線、続いて琴平線で、詰田川・春日川の橋梁架け替え後は特に撮影地の少ない志度線には殆ど行かなかったという事情もあります。

茶色に戻されてからの話は、いずれ別の機会に。
そういえば、今月13日のレトロ電車では23が500とペアで走るようですね。

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by hiro_hrkz | 2016-11-12 00:34 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
一畑電気鉄道 デハ20形
86年ぶりの完全新造車が投入されることが話題になっている、島根県の一畑電車。
その、86年前とは昭和初期・・・電化や路線延長が行われた時期で、日本車輌製の鋼製電車を揃えました。
ローカル私鉄マニアの間ではそこそこ有名な車両ですので、これまでは遠景冬の日の景色として遠慮がちな記事にとどめていました。そこで、今回は車両に焦点をあて、一部を改造してつくられた2扉クロスシート車のデハ20形を取り上げたいと思います
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・一畑電気鉄道 デハ23 1993年8月 平田市
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・一畑電気鉄道 デハ22 1995年2月 秋鹿町

まず、一畑の日車製16m級鋼製電車についておさらい。
出雲今市(現・出雲市)~一畑の電化に際して、1927年9月にデハ1~5の5両を新製。うちデハ4は験を担いだのか1929年にデハ6に改番。3扉ロングシートでした。
続いて、1928年に団体用に制御車の(クハ14→)クハ101を増備。車体はデハ1と同型で、その後、1942年認可・1948年に竣工で電装されてデハ7に改番。
そして、小境灘(現・一畑口)~北松江(現・松江しんじ湖温泉)および大社線の開業に際して、1928年にクハ(ニ)3~4、1929年にデハニ53~54を新製。こちらは、2扉+荷物室の合造車となりました。3、4は翌年には電装されてデハニ51~52に改番されています。
合計10両を短期間に揃えたのは、なかなか立派なものですね。

戦後、1951~52年にかけて、デハニ51、デハ2、1、5の順に、2扉クロスシートのデハ21~24にナニワ工機で改造しています。種車は異なりますが、デハ1から中央扉を埋めた窓配置に改造。リベットの打ち方や車体裾の形状も違和感なく仕上げられています。
また、1967年にはデハニ54をデハ11に改番したうえで、デハ7を1962年に電装解除したクハ111と固定編成にしました。このとき車体は大幅に手を加えられ、2扉なるもののその位置は車体中央より、側面ステップは切り上げられ、車内はロングシートとなりました。
そして、3扉両運転台で残ったデハ3、6は1978年の大社線ワンマン化に際して、アルナ工機で運転席の拡張・乗務員扉の取り付けと、それに伴い両端の扉と戸袋窓を車体中央側にずらす工事を請けています。

下回りは制御器と主電動機は三菱製であるのは、この時期の日車製地方私鉄向け電車の多くに同じ。WH社のライセンス品である単位スイッチ式手動加速のHL制御器と、定格出力75kwのMB-98-AFGを4機備えています。が、戦後、双方を弱界磁制御が行えるように改造を行い、列車速度を向上しています。本来、WH~三菱の制御器は弱界磁制御が行えるものはFがつくわけで、HLF(制御器の電源がバッテリならHBF)と称するのが正しいのですが、後付改造ということもあるのか、このような言い方はしていませんでした。
 余談ですが、デハニで認可最高速度の85km/hを経験したことがありますが、これが実にダイナミックなもの。なにかにつかまっていないと・・・というのが大げさではないほどでした。

ブレーキは直通制動(SME)。後年、5両編成にするときは、中間車にブレーキ手を乗せて、編成後部の車両にも均一にブレーキがかかるように操作していました。

さて、デハ20形は1958~59年に入線した、もと西武鉄道クハ1235~1238のクハ100形101~104と編成を組むようになります。が、両者は固定編成にならず、デハ20形は最後まで両運転台のままでした。
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画像は1995年に撮影したデハ22の車内。
 二重屋根風の天井や木製のボックスシート、
 扉は木造の手動・日よけは鎧戸である一方で窓枠はアルミサッシ、
 客室の車内照明は蛍光灯だが運転席だけ白熱灯であること
などが解りますが、一点注目していただきたいのが運転台の仕切りの位置。いつも先頭に立っていたパンタグラフ側は左隅なのに対して、クハ100と連結する側は中央運転台になっていました。
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・一畑電気鉄道 デハ21 1993年8月 平田市

踏切事故か何かで先に戦線離脱(1994年6月廃車)した21の非パンタ側です。
ワイパーの取り付け穴も中央の窓枠にあけられていることがわかるかと思います。
前照灯もパンタグラフ側がシールドビーム2灯なのに対し、こちらは白熱灯のままですね。

デハ24がいちばんはやく1981年に廃車。最後まで残っていたデハ22・23は1996年に廃車になりましたが、うち23が赤茶色の旧塗装に戻されて、平田市駅近くの平田図書館前に保存されました。
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・1998年9月 

しかし、長続きはせず2004年?に解体。先頭部だけが島根県立古代出雲歴史博物館に引き継がれました。

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by hiro_hrkz | 2016-08-13 00:47 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)
日立電鉄 モハ1301
日立電鉄の旧型車が営団2000に置き変わる寸前。残っていた車両の中で、とりわけ異色の存在だったのが、モハ1301でした。
もと宇部鉄道の車両で、僚車4両の中で、これだけが10年以上生き延びていました。
画像は、1989年に日立電鉄を訪れた際に、常北太田の側線の端に置かれていたもの。かなり無理して撮影しています。
いまなら、駅の外を一周して他のアングルから撮るのでしょうけど、この頃はフィルムの枚数等もあり・・・そしてはじめてのローカル私鉄遠征ということもあったのでしょう・・・これ1枚しか撮影していませんでした。
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・日立電鉄 モハ1301 1989年4月 常北太田

日立電鉄独特の更新改造を受けているものの、四角四面の鉄の箱という感じがする車両。
そして、見れば見るほど独特の窓配置であることがわかります。今回はその点について、少々記したいと思います、

まず、この車両の車歴について。
1929年、小倉にあった東洋車輛で4両が宇部鉄道モハ21~24として製造され、1943年5月1日の国家買収後も車番は変わなかったものの、1945年に宇部の空襲によりモハ23を焼失。残った車両は可部線さらに富山港線と転出して1953年の一斉改番で、漸くモハ1300~1302と国鉄として正式な車番を振られたのち、1956~1958年に廃車。うちモハ1301・1302の2両が同じ宇部鉄道出自のクハ5300・5301と共に日立電鉄に譲渡され改番せずに使用された・・・ということになります。
詳細は拙サイトをご覧いただければ、と思います。

宇部鉄道の電車は空襲で電車区が焼けたことも関係するのか、私鉄時代の写真が殆ど残っていません。
しかし、1939年に牧野俊介氏が撮影されたモハ24の写真が鉄道ファン240号(1981年4月)の「宇部線を走った社形国電」に掲載されています。
その頃の窓配置はパンタがある側から、1D1D12D1。この車両を形容する際に「合造車を思わせる窓配置」という言葉が使われますが、もとはまさしく荷物室が存在していたようです。なお、窓は1段式、ヘッドライトは路面電車の如く、窓下に取り付けられていました。

この次は、戦後、1950年代に可部線または富山港線で撮影された写真となります。
ネコパブリッシング刊の「私鉄買収国電」に全車の写真が掲載されていますが、これらを見ると、パンタグラフ側のエンドよりの(荷物)扉は幅が狭められて乗務員扉になっています。逆エンド側は1300は原型のままですが、1301と1302は、扉が窓半枚分、車両中心側にずれ、運転席側には乗務員扉が設けられていたようです。これは鉄道ピクトリアル626号(1996年9月)のP28に掲載されている、1957年に沢柳健一氏が撮影されたモハ1302の写真から判断した結果です。
つまりモハ1300は(パンタ側から)1d1D12D1、モハ1301・1302は1d1D11D1(逆サイドは1dD11D1d1)となります。これらの改造は1951年に幡生工場で施工された模様。なお、富山港線所属時に1300・1301は非パンタ側の運転台を撤去・片運転台化され妻面の窓は埋められていたとあります。

そして、日立電鉄に2両が譲渡されるのですが、その時期はずれており、先にモハ1301が1957年に譲渡されます。国鉄時代の最終形態のまま2扉で使用されました。ただし、この時点で非パンタ側の乗務員扉は埋められて通常の窓(従って窓配置は非パンタ側から2D11D1d1)に変化しています。
一方、1959年に譲渡されたモハ1302は入線時に日車支店で3扉・2段窓にに改造されています。このときに、パンタグラ側の客用扉と、その直前の窓の位置を入れ替え、連結面寄りの窓を他の客用窓と同じサイズに拡張した結果、窓配置は1d5D5D1に変化します。
モハ1301も1963年2月に3扉化。こちらはパンタグラフ側の窓配置を弄らなかったので、(パンタ側から)1d1D4D5D1になりました。また増設した扉の開く方向が2両でアベコベになっています。

この後、ベンチレータをグローブ式に交換・・買収国電なので国鉄時代の施工と思われがちですが、日立電鉄に譲渡後に行われています。さらに1969年?にはモハ1301に対して車体更新工事を実施。この頃の日立電鉄の更新車におなじみのメニューが実施され、前面窓や戸袋窓など各所をHゴム化、他の窓は2段窓化、更にウィンドウシルを撤去しています。連結面寄りの窓はHゴム支持の窓1枚に変更されました。一点よくわからないのが、モハ1301の連結面の窓が開けなおされたのがいつだったのかという点。

モハ1301+クハ5301、クハ5300+モハ1302の固定編成で使用されていたものの、1979年、相鉄からモハ1007~1009などを譲り受けた際に、モハ1302およびクハ5300が廃車。その後、1985年にクハ5301が廃車になり、編成相手を失ったモハ1301は両運転台に復し、昼間のワンマン運転用に改造されます。
このときに、結構な改造が行われていることがわかります。パンタグラフ側の扉と窓をモハ1302の如く入れ替え、また助手側の乗務員扉を埋めています。非パンタ側の新設運転台部分も窓2枚若しくは窓と乗務員扉になりました。結果、窓配置は上記写真のように、1dD5D5D1.1となりました。
パンタ側の従来からある運転台は中央から左に移動しています。テールライトはガイコツ型から埋め込み型になりました。

下回りもいろいろ変遷を受けているようですが、詳細は不肖。
RMライブラリ64「日立電鉄の75年」には制御器がRPC101(国鉄CS-1)とあるものの、原型はHL。富山港線時代の制御器とも異なり、これへの変更は果たしていつなのか・・・

廃車は1991年のことです。


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by hiro_hrkz | 2016-05-11 00:51 | 鉄道(旧形電車) | Trackback | Comments(0)